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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月28日・平重衡の南都焼き討ち。

治承4(1181)年の明日12月28日に日本史上、信長さんの比叡山焼き討ち、秀吉さんの根来寺焼き討ち、明治の廃佛毀釋と並ぶ大凶悪事(松永久秀さんの2度目はキリシタンの雑兵の仕業なので除外)・平重衡さんによる南都焼き討ちが起こりました。
奈良佛教と平家の対立は平治元(1160)年の平治の乱で勝利した平清盛さんが大和国を与えられると奈良の寺院が朝廷から受けていた特権を無視して統治を進めたことが発端でした。中でも聖武天皇が国家鎮護の発願で建立した東大寺と春日大社と並ぶ藤原家の菩提寺・興福寺は皇室と摂関家の権威を背景にして公然と反抗しただけでなく強力な武力で抵抗したのです。現代の日本人は「僧兵」と言えば武蔵坊弁慶さんを出した比叡山延暦寺の専売特許だと思っていますが平安時代には他の大寺院でも伽藍・寺領の自衛組織として僧侶に武装させた「僧兵」を置いていました。ただし、鑑真和上が伝えた奈良佛教の正当な佛戒では僧侶が武器を持つことは許されませんが比叡山の大乗菩薩戒にはありません。
ところが清盛さんが大軍を率いて福原から上洛した「治承三(1179)年の政変」で後白河法皇と関白が権力を失うと奈良=南都側の危機感が高まり、治承4(1180)年の以仁王の乱に呼応して園城寺と共に反平家側に加わったのです。しかし、以仁王の挙兵が呆気なく失敗すると園城寺には朝廷の法会への参加停止、寺領没収、僧侶を統括する僧綱の罷免などの厳しい処分を下したのに対し興福寺は親平家派の別当が選ばれ、寺内でも協調派が台頭したため軽い処分で済みました。
それでも以仁王の令旨を受けて源氏が挙兵すると再び園城寺と共に挙兵したため重衡くんが12月11日に園城寺を焼き討ちにしたのです。同時に清盛さんは妹尾兼康さんに500人の兵を与えて奈良に派遣しますが、前述の協調派の存在を念頭に武力衝突を控えさせたため僧兵に壊滅させられ、猿沢の池の畔に60人の首が晒されました。これを受けて清盛さんは園城寺から帰った重衡さんに出陣を命じ、奈良へ向かわせたのです。
奈良へは北と東から侵攻しましたが、南都側は東大寺の裏手の般若坂と平城山の奈良坂に柵を設けたためその攻防・争奪の激戦が始まりました。そんな激戦の最中、般若坂の頂上付近にある般若寺に本陣を置いた重衡さんが兵に暖を取らせるために始めさせた焚火の炎が折からの強い北風で燃え広がり、北は火元の般若寺から南はかなり離れた新薬師寺まで、東は東大寺と興福寺の東端から西は法華寺付近(航空自衛隊幹部候補生学校の所在地)に及び東大寺では離れた高台にある法華堂(=三月堂)や二月堂、境内が広い正倉院を除く大佛殿ほかの主要な堂宇が、興福寺も中金堂、東金堂、西金堂に五重塔、講堂など38棟の堂宇・伽藍だけでなく大佛や多くの佛像、菩薩像、諸天像、膨大な経典、宝物の大半が灰燼に帰しました。また寺院には多くの庶民が兵火を避けて逃げ込んでいて3500人余が焼死したと「平家物語」にはあります(「吾妻鏡」では100人余)。
この大凶悪事の佛罰は即座に下り、年が明けた1月14日に清盛さんの娘を皇后にしていた高倉上皇が崩御し、間もなく清盛さんも高熱に倒れ、閏2月4日に死亡すると平家は一気に凋落して4年後の元暦2(1185)年3月24日に壇ノ浦で滅亡しました。
  1. 2022/12/27(火) 14:27:03|
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