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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月29日・極めて山口県的な海軍軍人・末次信正大将の命日

敗戦が9カ月後に迫る昭和19(1944)年の12月29日は日本を78年間で滅ぼした毛利藩=山口県の凶風を海軍で体現した末次信正大将の命日です。64歳でした。
末次大将は明治13(1880)年に陸軍の児玉源太郎大将と同じく毛利領徳山支藩で藩士の次男として生まれました。旧制・広島第1中学校から海軍兵学校に27期生として入営しますが、海軍では昇任などの人事に大きく影響するハンモック・ナンバー=卒業序列は114名中50番と平凡なものでした。沖縄出身の提督・漢那憲和少将と同期でした。
ところが卒業から5年後に日露戦争が始まり、終戦3年後に海軍大学校に入校すると首席で卒業して海軍兵学校での不利を挽回しました。この悪あがきは山口県人の得意技です。
卒業後は海軍砲術学校の教官になりましたが、「艦の中心線上に回旋式の主砲を配置して横方向に一斉射撃する」と言う個人的見解を上司に無断で学生に教育するとイギリス海軍が同じ発想の戦艦を建造したため先見性を評価されることになりました。これも山口県的「結果オーライ」です。
そのおかげなのか第1次世界大戦が始まった大正3(1914)年に渡英するとイギリス海軍の戦艦と巡洋艦に乗り込んで1916年5月31日から6月1日に行われた第1次世界大戦では唯一の主力艦隊同士の対決になったユトランド海戦も視察しました。この時、戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を抱き、後に帝国海軍の対米戦略となるパナマ運河とハワイの閉塞、潜水艦による海上輸送路の破壊、西太平洋での潜水艦と小型艦艇による哨戒網の構築、日本近海に引きつけての艦隊決戦などの漸減戦略を構想するようになりました。
第1次世界大戦が終結して帰国すると大正8(1919)年に軍令部の作戦を担当する第1課長になり、大正11(1922)年のワシントン海軍軍縮会議に次席随員として同行し、加藤寛治首席随員と共に全権の加藤友三郎海軍大臣の締結方針を徹底的に妨害しましたが、この辺りも倒幕派と佐幕派に分かれて殺し合った毛利藩の幕末史そのままです。
そして結果が出ても服従しないところが山口県人で帰国後は軍令部第1班長(課長の上の作戦部長に相当する)に異例の大佐で就任すると国際条約として批准するための手続きを妨害し、海軍内でも東郷平八郎元帥や皇族の伏見宮博恭元帥を担ぎ出して昭和に入って陸軍が皇道派と統制派に分裂したのを先取りするように艦隊派と条約派の対立(と言うよりも艦隊派が一方的に攻撃していた)を生起させたのです。この対立は民間にも長く波及していて昭和19(1944)年の東宝映画「怒りの海」は艦艇設計の神さま・平賀譲中将を主人公にしながら海軍軍縮条約を日本の敗因として批判しています。
大正12(1923)年には少将として第1潜水艦隊司令官になり、実際に潜水艦に乗り組んで自らの戦術構想を実地に検証すると同時に改良を指示して帝国海軍の潜水艦の性能と技量、運用方法を飛躍的に向上させました。末次大将の軍歴ではこの第1潜水艦隊司令官時代が最も高く評価されています。
昭和12(1937)年の予備役編入後は山口県人らしく政界に進出しますが陸軍軍人の政治権力者から危険視され、昭和の陛下の信任もなかったため首相にはなれませんでした。
  1. 2022/12/28(水) 14:34:22|
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