fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月31日・科学者で俳人で随筆家の寺田寅彦の命日

昭和10(1935)年の明日12月31日は日本の科学研究の最高峰・理化学研究所に所属して「天災は忘れた頃にやってくる」の金言を残した地球物理学から「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」などの統計力学的な身辺の物理学的現象の研究が「寺田物理学」と呼ばれるようになった一流の科学者だった一方で夏目漱石さんの俳句の門弟として「吾輩は猫である」の水島寒月(猫の飼い主の教え子で戸惑いしたヘチマのような顔の理学士)や「三四郎」の野々宮宗八(小川三四郎の九州の同郷の先輩で理科大学で光線力学の研究をしている)のモデルになり、晩年には世情を科学的に分析した秀逸な随筆を発表した寺田寅彦さんの命日です。活躍の割に短命な57歳でした。
寺田さんは明治11(1878)年に東京で土佐藩の足軽の姉の下の長男として生まれました。この年の干支が寅で、誕生日も寅の日だったことが名前の由来だそうです。父親は18歳の時に高知城下で上士と郷士が全面対決寸前の一触即発にまで至った井口村刀傷事件で上士を背後から斬殺して自栽・切腹した兄を介錯したため(時代小説では坂本竜馬が介錯して刀の下緒を血で染めた名場面になっている)一時的に精神を病んで戊辰戦争には参加せず、学問で身を立てるべく土佐で勉学に励んだ人物でした。その影響で寺田さんは当時主流だった軍人ではなく科学者への道を選択したと言われています。
3歳の時、父親が38歳で死んだため祖母、母親、姉と高知の東久万に移住し、高知県尋常中学校に入学しました。そして明治29(1996)年に熊本の第5高等学校に進学すると英語を夏目金之助=漱石教授、物理学を大正から東京帝国大学の航空機研究を主導することになる田丸卓郎教授に学び、多大な影響を受けたことで両足に科学と文学の二足の草鞋を履くことになりました。ちなみに明治31(1898)年には夏目教授を主催者とする俳句雑誌を刊行しています。また在学中に土佐出身の軍人の娘と結婚しました。
明治32(1899)年に東京帝国大学の理科大学に進学し、在学中の明治35(1902)年に妻が病没しましたが、明治36(1903)年に首席で卒業すると母校の講師になりました。明治38(1905)年には再婚し、博士号課程で日本の物理学の両巨頭・長岡半太郎博士や田中館愛橘博士の教えを受け、明治41(1909)年には「尺八の音響学研究」で博士号を取得し、翌年1月に助教授になりました。
その3カ月後から地球物理学研究のためドイツに留学して明治44(1912)年に帰国すると水産講習所から海洋学の研究を嘱託され、大正5(1916)年には母校の教授に就任しますが、翌年に2度目の妻が病没しました。それでもその翌年には再々婚しています。2度の妻の病没を見ると慶事の後に哀しみが訪れる巡り合わせのようで寺田さんなら「天災は・・・」のような金言が作れそうです。
その後は大正13(1924)年から理化学研究所員を兼務し、昭和3(1928)年には帝国学士院の会員になっていますが、昭和10(1935)年に転移性腫瘍を発症して大晦日に亡くなりましたから昭和12(1937)年の第1回文化勲章には間に合いませんでした。ただし、第1回の受章者は各分野の最高権威だったので多分無理でしょう。
  1. 2022/12/30(金) 14:25:38|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ354 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ353>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8140-35bdc07b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)