昭和41(1966)年の1月4日は甲賀流忍術をはじめとする多くの古武術の奥義を継承し、現在の自衛隊体育学校に当たる陸軍戸山学校や陸軍士官学校、陸軍大学校、海軍大学校の武術の教授を務め、後に創設された陸軍中野学校では忍術を伝授したと言われる藤田西湖さんの命日です。ちなみに藤田さんの戸籍上の本名は「勇治」ですが本人が嫌って「勇」と名乗り、後に画号の「西湖(せいこ)」を常用するようになりました。
藤田さんは明治32(1899)年に東京で甲賀流忍術を継承する家で生まれましたが、この手の人物の常で生い立ちは謎に包まれていて両親の素上やどこでどのように育ったのかはハッキリしていません。
本人の著書などで判っているのは6歳の時に喧嘩で11名に怪我を負わせて寺に預けられたもののあまりにも凶暴なため数件の寺でたらい回しにされ、やがて修験道に入門して修行に励んだことからです。7歳の秋にオカルト研究に熱中していた東京帝国大学の教授に千里眼(透視能力)の持ち主として注目され、その後は祖父から甲賀流忍術を、当身技を多用する柔術の南蛮殺到流を元延岡藩士の創始者から、大円流杖術や心月流手裏剣術、一伝流捕手術の宗家を継承し、その他にも拳法や柔術、槍術や薙刀、剣術や十手術などの真髄を修得したそうです。その一方で7歳から忍術の見取図を作成する基礎として日本画を学ぶことになり(西湖と言う画号はこの頃から使い始めた)、同様の理由で歌舞、音曲、書、彫刻も身につけたそうです。
このような文武両道の達人を軍が放っておくはずがなく前述の軍学校で教授を勤めただけでなく昭和12(1937)年に岩畔豪雄中佐の提案で創設されることになった海外で活動する諜報要員の養成機関・陸軍中野学校には準備段階から関与し、護身術としての武術だけでなく古来、戦乱の裏で活躍・発展した日本独自の諜報要員=忍者の精神要素を詳細かつ具体的に教育し、これは藤田さんが退任した後も継承され、さらにゲリラ戦指揮官を養成するために新設された陸軍中野学校二俣分校にも踏襲されたと言われています。そのためなのか日本陸軍の諜報要員は一過性の滞在で必要な情報を収集する欧米式スパイに比べて現地に根を下ろし、長期間にわたって生活を共にし、人間的な信頼関係を築いた上で社会の奥にまで踏み込んだ情報を探求するだけでなく有事には味方となる政治工作まで担っています。
ちなみに藤田さんが宗家を継承した南蛮殺到流柔術や大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術は東洋大学の学生で少年時代から合気道の創始者の植芝盛平さんの下で修業し、糸東流空手を創始した摩文仁賢和さんの門弟だった岩田万蔵さんに授与されましたが甲賀流忍術だけは辞退しています。ところがヨーロッパには「ニンジャドー(忍者道?)」なる武術があるそうで、小浜の僧堂の臘八摂心に参禅したドイツ人は黒の作務衣を着て庭で木登りと体操の床運動のような動作をしながらの突き蹴りの練習に励んでいました。野僧が少林寺拳法の関節技を教えると異様に感激して「アー・ユー・ニンジャ?」と訊いたので「フォーマー(元)・ミリタリー・ニンジャ」と答えておきました。
- 2023/01/05(木) 13:32:54|
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