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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ360

「屯田エレナさんですね。山口県警本部の谷重と言います」警部補は駐在所からの帰りに屯田家に寄ると午前の畑仕事を終えて義祖母と庭で農具の手入れをしているエレナに声を掛けた。これは逮捕や家宅捜索ではないので裁判所が交付する令状は必要ない。
「巡査がウチの嫁に何の用ねェ」「残念ながら私は巡査ではない。警部補の幹部警察官です」警察官と聞いて逃れるように立ち上がったエレナに代わって義祖母が警部補を詰問したが、警察官を「お巡りさん」よりも正式に呼ぶ時の「巡査」を用いたため話は空回りしてしまった。義祖母に対応しながら警部補は凍りついたように立ちすくんでいるエレナを観察した。麦わら帽子の下には後ろで束ねた輝くような金髪が見える。化粧っ気は全くないが顔立ちはモデルにしたいほどの美貌だ。農作業用に古着のワイシャツとモンペに長靴を履いているが、せめてアメリカの農婦のようにオーバーオールのGパンにしてもらいたい。
それにしてもエレナの怯え方は尋常ではない。チェチェンでは軍や警察の呼び出しは独立派の疑いを掛けられてことを意味し、取り調べは拷問になり、女性は性的虐待を受けるのが常識だった。エレナは「ロシア軍が北海道への武力行使を始めた」と言うニュースを見て以来、「日本の警察や自衛隊も同じことを始めるのではないか」と危惧して家族に相談していたのだ。
「実は所管駐在所でエレナさんがチェチェン出身と聞きまして是非お話を伺いたいと思ってやってきた次第です」公安担当の警察官は接触する相手の緊張を和らげ、警戒心を解くための柔和な表情を作る演技に長けている。短髪ではなく七三分けにして背広を着ているのもその演出・小道具のうちだ。案の定、田舎の農家の婆さんに過ぎない義祖母は警部補の柔和な笑顔と丁寧な口ぶりにアッサリと籠絡されて後退さっているエレナの前に招き寄せた。
「お義母さん、お義父さんが話は家の中でしろって言っています」その時、玄関を開けて家の中で昼食の支度をしていた義母が声を掛けてきた。義祖父が自分で言いに来ないところが最近はエレナもかなり染められている戦前派の作法だ。
「そうですね。立ち話でするような用件ではないので遠慮なくお邪魔します」意外にも警部補は先に同意した。本来であれば昼食の時間帯の来訪は避けるのが日本の常識だが、この機会を逃せない用件のようだ。警部補は裏口に回る義祖母とエレナとは別れて玄関から入った。
「チェチェンと言えばウクライナよりも前にロシア軍による大虐殺の舞台になった地域のはず、貴女のご家族は無事でしたか」「孫との結婚式の時に会いましたがエレナの家族は無事でしたよ。それでも帰国するのにあまり気乗りしない様子でした」「畑が待ってるから帰るんだって言ってました」座敷で長い座卓を囲む形に座ると警部補は挨拶もそこそこに用件を切り出した。すると上座の義祖父と左脇の辺の義祖母が交互に答えた。この警部補は座敷に通された時、門徒の金ピカな佛壇の上の梁に掲げてあるギリシア正教の聖画=イコンの額に目を止めていた。
「エレナさんはロシアが日本と中国や韓国との紛争に介入してきたことをどう思っているのですか」「それは当然ロシアの過ち、誤りだって思っていますよ。家族にもハッキリそう言っています」「それで間違いありませんか」屯田家ではエレナの口から母国を非難させないように義祖父母が代弁しているが、警部補はあえて本人に確認した。
「私はチェチェンでロシア軍が犯した数多くの人道に対する罪を直接目撃しています。今はロシア軍が侵攻してきて同じ惨劇が愛する日本で繰り返されることが不安なんです。こちらには対馬から避難してきた島民の皆さんが暮らしていますが、北海道の人たちも残らず本州に逃げてきて無人島にしてしまえば良いんです」最後の極論はエレナには珍しいロシアン・ジョークなのかも知れないが隣りに座っている義母は真顔でうなずいた。
「エレナさんの気持ちを確かめたところで本題に入ります。これは他言無用に願います」義祖父の正面の席で正座したまま姿勢を正した警部補が古臭い切り口上を述べるとエレナは義母に顔を寄せて「タゴンムヨー」の意味を訊ねた。
「自衛隊はロシア軍の無線の交信を傍受しているのですが、最近は交信量が急増して翻訳が追いつかない事態に陥っているんです。かと言って在日ロシア人や親ロシアのロシア語の専門家に依頼することはできない。だから・・・」「私はどこへ行けば良いんですか」警部補の説明を遮るようにエレナは即答した。義祖父母と義母はエレナが仕事で不在にしている夫の信彦や義父に相談することなく独断で決定したことに困惑して顔を見合わせたが、その目が参戦を決意した義勇兵のような厳しさを漂わせているのを見て唇を固く引き締めた。
翌日、エレナは北海道への新婚旅行の時、屯田局員に買ってもらったスーツ上下と帽子で身を固め、自衛隊の車両で中国地方の日本海側にある航空自衛隊の某基地に向かった。前夜、エレナの気持ちを知り抜いている屯田局員は何も言わずに精力が尽きるまで愛し抜いた。
ぬイメージ画像
  1. 2023/01/06(金) 13:37:20|
  2. 夜の連続小説9
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