2022年の12月29日に「サッカーの王様」ペレことエドソン・アランテス・ド・ナシメントさんが大腸癌の進行による多臓器不全で亡くなったそうです。82歳でした。
日本では「サッカーの神様」と紹介することが多いですが母国のブラジルはカソリック教国であり、サッカーが盛んな地域の大半はキリスト教国なのでカミは唯一絶対の創造主だけで人間への尊称に用いることはありません。実際、英語では「キング・オブ・フットボール」、現地語=ポルトガル語?でも同様です(読めませんが)。ただし、野僧はサッカーの門外漢なのでペレさんのプレイの素晴らしさについては実感できません。
ペレさんは1940年にブラジル南東部のミナスジェライト州トレス・コラソンエスでアフリカ系ブラジル人のプロ・サッカー選手の息子として生まれ、その頃に街に電気がつながったため電灯を発明したトーマス・エジソンにちなんで「エドソン」と命名されました。ちなみに愛称の「ペレ」は父親が所属していたクラブ・チームのゴール・キーパーの「ビレ」のファンで自称していたものの生まれ育ったミナスジェライト訛りで「B」と「P」が上手く言い分けられず「ピレ」になってしまったのが定着したようです。
同じセンター・フォアードだった父親は「長身で(ペレさんよりも10センチ高い183センチ)、柔軟な身体と逞しい脚を持った完璧な選手だった」と息子のペレさんが評していますが、母親はクラブ・チームの移籍で転居が多く、生活が不安定なサッカー選手ではなく高学歴の堅実な職業に就くように息子に勉強を強要したそうです。特に父親が35歳で膝の故障で引退して生活が困窮するとサッカーを禁止されましたが、やはりブラジルの少年にとってサッカーは夢を追い求める栄光への道なので母親の目を盗んで父親の指導を受けるようになり、夢中で練習に励みました。
そんな1950年に地元ブラジルで開催されたワールドカップで国民の誰もが優勝を確信していたブラジル代表が引き分けで優勝が決まる決勝のウルグアイ戦で終了間際の失点で敗北すると悲嘆にくれる父親にペレ少年は「悲しまないで、いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と慰めたそうです。
その言葉通りに15歳でプロ・デビューするとサッカーの王道を走りましたが、ペレさんは事実上の引退後にアメリカのクラブ・チームに移籍するまでは一貫してブラジルのサントスで438試合に出場し、ブラジル代表として3度のワールドカップ優勝、クラブ・チームのインターコンチネンタルカップで2度優勝の実績を残した点が他の南アメリカの有名選手たちとの違いです。またブラジルの大統領はヨーロッパのクラブ・チームの争奪合戦に対して「ペレは輸出対象外の国宝である」と拒否を宣言しました。余談ながらペレさんがブラジルの代名詞的存在になったため本当はアメリカ人のプロレスラー=ボボ・ブラジルも重なって「ブラジル人はアフリカ系だ」と信じている馬鹿が結構いました。
ペレさんには渋滞に巻き込まれて停車中に高級車に目を着けた路上強盗に襲われた時、帽子を取って顔を見せると「貴方からは何も奪えない」と退散したと言う偉大さがブラジル国民に浸透していることを示す有名な逸話があります。冥福を祈ります。
- 2023/01/06(金) 13:38:47|
- 追悼・告別・永訣文
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