続・振り向けばイエスタディ３６１

「屯田さんはチェチェンの出身なんですね」「はい、チェチェンでも黒海側の田舎の出身です」航空自衛隊が自宅まで差し向けた濃青色のライトバン＝業務車１号の後席に乗ったエレナに運転手の同世代のＷＡＦ（航空自衛隊の女性自衛官）の空曹は気さくに話しかけてきた。
今朝は夫の屯田局員は昨夜の激戦で腰痛になり、バイクでの配達が不安そうだったが熱烈なキスをしてから定時に出勤した。義父も同様に定年後に再就職した地元の工場に出かけたため見送ったのは義祖父母と義母、それに昨夜の家族会議にも出席していた義姉の４人だった。運転手までＷＡＦだったので唯一の男性になった義祖父は幼い頃に経験した出征兵士の見送りを思い出して万歳三唱しようとしたが女性陣に無視されて空振りになった。それでも義姉が１人１人に挨拶するエレナに抱きついたのに倣い、義母と義祖母の後に抱きつかせてもらって妙に嬉しそうだった。頬ずりまでしていたような気がする。
「申し訳ないのですが私はチェチェンのことをよく知らなくて・・・確かカスピ海と黒海の間にあるんですよね」「そうです。日本で言えば四国くらいの人口１１０万人の小さな国です。南で接しているジョージアとはカフカス山脈が国境になっていてその裾野が国土です」「カフカス山脈ですか・・・コーカサス山脈のことかな」「それはロシア語の呼び方ですね」エレナの返事の口調が変わったことを感じたＷＡＦがルーム・ミラーを覗くとやはり厳しい目をしていた。ジョージアは２０１５年に国名をロシア語のグルジアから変更したが、２０２２年に侵攻を受けたウクライナでも首都の名称をロシア語のキエフからキーウに改称している。その点、日本人にとって国土は神話の時代に作った神々とその子孫の天皇の所有物であって国民は居候に過ぎないと言う潜在意識があり、そのため土地や地名にそれほど執着していない。実際、薩長土肥と公家の明治政府は戊辰戦争で敵対した地域は古くから戦乱が絶えなかった近隣の仇敵を組み合わせて県にした上、嫌がる地名を強要したが住民の反発の声は聞かない。
「エレナさんは山陰に来たことはありますか」「はい、夫が休みの度にドライブや旅行に連れて行ってくれるので鳥取砂丘と足立美術館に水木しげるロード、松江城と出雲の大きな神社や日本一高い灯台、浜田の水族館にも行きました」ＷＡＦは公用車の制限速度では山口県下関市豊北町の屯田宅から某基地までは昼食の休憩を挟んで片道６時間はかかるため通過することになる観光ポイントを口頭で説明するつもりだった。しかし、愛妻家の屯田局員はダノンと呼ばれていた結婚前から仕事の合間の休暇でエレナとの小旅行を満喫していたので中国地方の山陰側は完全制覇していた。結婚後は新型コロナ・ウィルスの行動制限で中断したが解除されてからは中国地方の山陽側と九州、四国に着々と２人の足跡を広げている。
「水木ロードへ行ったならウチの基地の前を通っていますね」「はい、可愛い軍用輸送機が飛んでいました」「あれはＣー２です。浜田のアクアスにいるシロイルカみたいでしょう。バブルリングは吐きませんけどね」ＷＡＦの説明にエレナが笑った吐息が聞えた。エレナはテディベアのようなダノンと浜田市の島根海洋館アクアスに行ってシロイルカがすっかり気に入ってしまった。記念に売店で大きなシロイルカの縫いぐるみを買ってもらってダノンと名づけ、寮で抱き枕にしていた。エレナはＣ―２と再会するのが楽しみになった。
エレナが中国地方の山陰地方の一般道を横断して鳥取県の某基地に到着したのは午後４時を過ぎていた。車両は基地の外れにある異様に厳重な柵で囲まれた区域の外側に建つ窓がない鉄筋コンクリート製２階建ての隊舎の正面玄関の前に止まった。そこには迷彩服を着た中年の男性が立っていた。男性はＷＡＦから積み荷の確認のようにエレナの説明を受けると後席のドアを開けて隊舎に案内した。後部に積んであるエレナの荷物は運転手のＷＡＦがこれから宿泊するＷＡＦ隊舎に運んでおくと説明されている。
男性はエレナを正面玄関の監視カメラの正面に立たせて識別装置にカード・キーと５桁の暗証番号を入力した。続いて装置を覗き込んで目の網膜、指をかざして指紋を確認させるとようやくドアが開いた。それでも玄関ホールでは腰の弾帯に拳銃を提げた隊員の確認を受けた。
「屯田エレナさん、ようこそ。ここでの業務は全て防衛秘密に属します。ご家族にも口外無用に願います」「コ―ガイムヨ―って何ですか」「誰にも、家族にも絶対に話してはいけないと言うことです」警備の隊員が電話を掛けると間もなく正面の階段を色が違う迷彩服を着た中年の男性が下りてきた。男性は案内した男性から「隊長」と呼ばれていた。その隊長は穏やかな笑顔をエレナに向けたが単刀直入に注意を突きつけた。
この情報部隊は存在さえも秘匿され、公式な防衛省・自衛隊の組織図にも記載されていない。この場所も本来は自衛官でさえ立ち入ることが許されない「不知の領域」なのだが、エレナの採用は国家的緊急事態に対処するための最上級・最高度の特別処置だった。