「えらく生々しいな」「着陸するために高度を下げてたからな」同じ頃、1機250人超が乗ったイリューシン76輸送機が2機ずつ撃墜された幌加内町と旭川市郊外でも通常の予備自衛官によって兵士の遺骸の収容が始まっていた。こちらでは稚内や根室には立ち入りを禁じられ、本人たちも社命を拒否しているマスコミ関係者の取材が許可されていた。
「しかし、これだけリアルだとテレビや新聞には使えないな」「日本ではPTSDに十分に配慮しなければならないからな」記者たちは広大な耕作地に改良ホークが命中し、爆発によって裂けた機体から放り出された遺骸が点々と続く光景にカメラを向けながら自嘲し合った。
マスコミや教育現場に限らず平成に入ってからの日本の自己規制は海外では徐々に緩くなるのに対して違反する内容や表現を粗探しする読者・視聴者が増殖して過剰に強化されるようになっている。そのため災害や戦争の報道でも犠牲者が写った凄惨な場面は事前に削除され、負傷者の流血や地面に残る血痕まで「子供が見てPTSDを発症した」のメール一本で姿を消す。そのおかげで死や苦痛を単なる現象として認識して殺害を恐れない有能な戦闘員が日本で増産されているのは「PTSD」を闇雲に普及させたマスコミと教育関係者の功績だ。
「ウチの編集部は雫石の事故のように報道するって言ってるんだがお前は知っているか」大手新聞社の札幌支局の記者たちは自由行動になると戦闘員と同じく遺骸を単なる物体と見て衝撃度だけを基準にした写真を撮り始めたが唐突に1人が別の新聞社の1人に訊ねた。
「雫石って岩手のスキー場だろう。スキー客のバス事故でもあったのかな」「それが自衛隊が旅客機を落とした事件なんだそうだ。ところがウチの支局では知っている者がいなくてネットを検索しているところで取材に出されたんだよ」「ロシア軍が大韓航空機を落とした事件なら知ってるがな・・・」平成生まれの記者たちにとっては昭和の歴史は入社して勉強した知識に過ぎず、1991年暮れに崩壊したソビエト連邦の存在でさえ頭に定着していない。おそらく東京の編集部にも雫石の事故を実際に担当したどころか記事を読んだ者もいないはずだが、この新聞社にとっては輝かしい勝利の記憶として語り継がれているようだ。
昭和46年7月30日に北海道の千歳空港を45分遅れの午後1時33分に離陸した羽田空港行きの全日空58便のボーイング727旅客機は岩手県の雫石上空で航空自衛隊のFー86Fに追突した。当時Tー2高等練習機は実用化されておらず、訓練生は教官機に随伴して無線で指導を受けながら訓練として飛行していた。ところがマスコミは使用目的は練習機だったFー86Fを「朝鮮戦争で活躍した戦闘機」と報じることで自衛隊機が旅客機を標的にした空中戦の訓練を実施していたかのような第一印象を流布し、緊急脱出して生還したパイロットの証言で追突事故と判明しても最高速度1105キロの戦闘機と製造から4カ月しか経っていない最新鋭の旅客機の1052キロのほぼ同等の最高速度は紹介せずに「身軽で高速度の戦闘機が低速度で安定飛行していた旅客機に衝突した」と断定し、1961年の東京オリンピックの開会式の五輪に続き、1970年の大阪万博でも大空に「EXPO70」の文字を描いて国民の支持を集めていた航空自衛隊に対する批判を扇動した。おまけに囲み取材を受けた航空幕僚副長が記者に強要されるままに謝罪したため事故の調査を待たずに航空自衛隊側の過失が確定した。その後は旅客機に乗っていて死亡した静岡の製茶農家の茶摘みを手伝うために浜松基地の隊員が動員されたが、感謝の言葉もなく罵声を浴びながらの作業になった。そして航空自衛隊はこの事故以降、パイロットの緊急脱出を封印して帝国海軍がイギリス海軍から受け継いだ乗艦と運命を共にする艦長と同じく墜落する乗機に殉ずる残酷な風習が続いた。
「要するにお前のA日新聞らしく自衛隊が撃墜した結果の残酷さを強調したいんだな。それならPTSDなんて言わずにこの遺骸の写真を載せろよ」「そこが難しいところなんだ」もう1人の記者は足元に倒れているロシア兵の遺骸を見下ろしながら感情を交えずに助言した。
この遺骸も収穫した後の農地に落下したので5体を留めている。人間の5体では頭部が最も重いため高い位置から落下すると風圧の影響を受けない限り逆さまになる。そのため幾つかの遺骸は上半身を地面にめり込ませて逆立ち状態になっている。強いて言えばこれが狙い目かも知れない。一方、雫石の事故では高度8500メートルだったため遺骸は空気圧の関係で身体に受けた傷が開いて内臓を撒き散らしながら落下したから正に血の雨が降ったと言う。
「人間が焼けてもジンギスカンみたいな臭いがするんだな」「うん、先に昼飯を喰っておいてよかったよ」続いて2人は墜落して炎上したイリューシン76の残骸を取材したが、機内には両側面の座席に安全ベルトで縛り付けられたまま火葬された兵士たちの遺骸が残っていた。それを見る前に周囲に漂う焼き肉のような臭いを嗅いで流石に悪寒が走った。この臭いを記事に添付できれば編集部の期待に応えられるが最新のインターネット配信でも無理だ。
- 2023/01/10(火) 13:30:50|
- 夜の連続小説9
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