「信繁を岐阜に帰らせなくちゃ。貴方から言ってよ」北海道での自衛隊とロシア軍の交戦をマスコミが報じると日本人、中でも中高年の女性たちに不安が広まった。岐阜県可児市の島田家でも居間のテーブルで島田元准尉が読み終えた朝刊を受け取った妻の順子が1面の「自衛隊とロシア軍が交戦」と言う大見出しと撃墜されたイリューシン76輸送機の残骸の写真を見て引きつった声を上げた。その異様に大きな写真では焼け焦げた機体の背後の耕作地に散乱している多くの遺骸があえて不鮮明にして写っていた。
「お前は若狭湾の原発破壊の後、放射線が危険だから帰ってくるなって言ってただろう。そっちは良いのか」「戦争と放射線では戦争の方が危険なのは判ってるじゃない。北海道の次は青森に攻めてくるんでしょ。今度はアメリカ軍も一緒に殺されるのよ」島田夫婦の1人息子の信繁は父親に憧れて陸上自衛隊に入隊したが通信職種にはなれず守山駐屯地の普通科連隊に配置された。すると演習と訓練だけの生活と隊員の質に失望して航空自衛隊の曹侯学生に転換した。航空自衛隊ではヘリコプター整備員になって全国各地の救難隊で勤務したが、救難機の転換による入校と転属が頻繁だったため結婚できなかった。その見返りなのか島田元准尉も驚くほど昇任が早く、大型輸送ヘリコプターのCHー47の整備員として転属した三沢基地の北部航空方面隊ヘリコプター空輸隊では先任空曹になり、そのまま定年退官した。定年後も予備自衛官として三沢基地のヘリコプター空輸隊に所属している。
「ロシアや中国はアメリカとの正面衝突だけは避けたいんだ。だから中国は沖縄本島には近づかないだろう。今の日本で安全なのは米軍基地がある場所だ。ロシアも三沢には手を出さない。逆に俺たちが疎開したいくらいだ」この見解は東北地区太平洋沖地震後に全国のローカルFM放送のDJが仙台に集められた番組で、岩手県の気仙沼の離島に派遣されたアメリカ軍の「トモダチ作戦」を紹介する時に熱弁を奮ったことがある。当時の民政党の缶政権は「在日アメリカ軍は悪者でなければならない」と派遣に難色を示し、取材に来ているマスコミは「野獣のようなアメリカ海兵隊が来れば被災地の女性や小学生まで乱暴される」と相手構わず言い触らしていた。そこで昭和一郎=島田元准尉はアメリカ軍の規律が極めて厳格で、アメリカ人の正義感は日本人よりも強烈であることを警察予備隊での体験談として語り、「おかげで住民の不安が解消された」と派遣を受ける岩手県や気仙沼市に感謝された。順子には帰宅後に録音した番組を聴かせたはずだが「毎度の自衛隊の広報活動」と聞き流したらしい。
「信繁は三沢に建てた家でアフリカ人の女と連れ子と一緒に暮らしているのよ。絶対に嫌」信繁は三沢基地に赴任すると先任空曹としてアメリカ空軍と交流を持つようになり、そこでアフリカ系の子連れで独身のWAFの下士官と知り合って同棲を始めたが順子の反対で結婚には至っていない。島田元准尉としても血がつながらない連れ子に跡を取らせることは残念だが、信繁の老後を考えて無下に反対はしなかった。それにしても最近の順子は阿蘇出身らしく「肥後のヒッパリ(足を引っ張り合う)」の気風が強くなってきて扱い辛くなってきた。自衛官の妻としては申し分なかったが自衛官の母としては今一歩だ。
「お父さん、いよいよ戦争が始まるの」同じ日、宮城県の船岡の茶山家でも新聞とテレビを見ながらの夫婦の会話が厳しくなっていた。それでも茶山家では息子が自衛官になっていないので危機感は少し他人事だ。むしろ茶山元3佐がカンボジアPKOに征った時の方が切実だった。
「戦争はとっくに始まってるんだよ。政治の手続きが進まないだけだ」読み終えた新聞を妻の静に渡した茶山元3佐は菓子代わりの沢庵を指で口に放り込んで茶をすすりながら答えた。不死身の茶山元3佐も流石に80歳を過ぎると体力の衰えを実感していて2011年の東北地区太平洋沖地震の後に自主的災害派遣に出動したような気合は入らない。あの時、一緒に災害派遣に参加した船岡施設OB隊の群長以下の元隊員たちも大半が亡くなってしまった。施設OB隊自体が新型コロナ・ウィルス感染症の行動規制で活動停止状態だ。
「でも船岡の部隊はまだ治安出動に励んでいて貴方の演習みたいに陣地構築を始めていないでしょう」「確かに出遅れてるな」静の鋭い指摘に茶山元3佐も口から喉に流れる茶が急に渋くなった。船岡駐屯地には豊川駐屯地で勤務していた第6施設群と同じく陣地構築や道路啓開、橋梁架設、渡河などの大規模工事を担当する後方施設の第10施設群が所在する。茶山元3佐も東北各地の地図を眺めながらロシア軍の上陸地点と侵攻経路を予測して陣地を構築する場所を選定しているが間近で生活していても部隊が出動した気配がない。
実は現在の陸上自衛隊ではロシア軍の戦術がヘリコプターを使った奇襲攻撃による地点占領を多用するようになったのを受けて以前の演習対抗部隊(甲)の教範に規定していた戦車部隊を主力とする陸路での侵攻は最終段階と見ていて作戦構想を転換しているのだ。
- 2023/01/11(水) 13:47:53|
- 夜の連続小説9
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