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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

日本の警備業界の父・飯田亮(まこと)代表の逝去を悼む。

1月7日に学習院大学の同級生の戸田壽一さんと共に日本初の警備保障会社・日本警備保障=後のSECOMを創業し、最終的には取締役最高顧問を務めた飯田亮代表(業界内の呼び名)が亡くなったそうです。89歳でした。
野僧が浜松基地の警備小隊長だった時、AWACSの配備に伴って科学警備機材の導入が決定するとSECOMとALSOK(旧・綜合警備保障)の熾烈な争奪戦が始まり、野僧のところに両社の浜松支店長が豪華な菓子折りを持って訪ねてきて(箱の底に小判は敷いてなかった)機材の説明をしながら相手の売り込み内容と入札時の落札予定価格の情報を探りました。おまけに情報提供の見返りまで口にしたので野僧が「武人を金で籠絡できると考えるのは侮辱である」と不快感を露わにすると態度を改め、それからは人事部長が通って来てヘッド・ハンティングを始めました(支店長たちは在日アメリカ軍憲兵隊への国内留学と体育学校格闘課程を修了した経歴と知識に非常に感心していた)。最終的には東京の両社のトップからも電話がかかってきたので飯田代表と話したかも知れません。
飯田代表は昭和8(1933)年4月1日に東京日本橋の老舗酒問屋の5男として生まれました。高校は神奈川県立湘南高校で芥川賞作家の石原慎太郎さんと同級生なのでデビュー作「太陽の季節」に登場する遊び仲間のモデルの1人と言われています。学習院大学に進学してカナダ帰りの戸田さんと親しくなり、卒業後にイギリス航空に就職した戸田さんがイギリスの警備業界の話題(アメリカでは傭兵や武装警護員の派遣会社になる)を持ち返ると家業の酒問屋を辞めて昭和37(1962)年に日本警備保障を設立したのです。このタイミングは絶妙で昭和39(1964)年10月の東京オリンピックに間に合って選手村の警備を担当しました。
それまでの大半の日本の企業では社屋・工場ごとに社員の守衛を置いて警備に当たらせていましたが、多くの場合、年齢や健康上の不安で現場の仕事に自信が持てなくなった老社員で不審者や不測事態への対処能力は十分とは言えませんでした。そこに警備の専門職として委託で請け負う企業が登場したのですから企業も興味を持ち、さらに昭和40(1965)年4月から昭和46(1971)年12月まで放送されたドラマ「ザ・ガードマン」の製作に全面協力したことで存在と実力が周知されたのです。ただし、飯田代表は自社の警備員を「ガードマン」ではなく「ビートエンジニア=緊急対処員」と呼ばせていました。
こうして警備保障業が社会に定着すると昭和40(1965)年にライバル会社の綜合警備保障が創立し、大阪万国博覧会では一緒に参入してその後は科学警備機材の開発や家庭の緊急対処サービスなどの市場開拓で鎬を削り、中小の警備保障会社が警察の天下り先に甘んじている中、独自の路線で切磋琢磨しています。
野僧は退役後、警備保障会社に入社すると次期支店長要員にされましたが、天下っている警察OBが警備上の知識・経験・能力が自衛隊OBの野僧の方が格段に勝っていることに危機感を持ったため見切りをつけ、自衛隊OBだけの警備保障会社「安全保障・防人(さきもり)」を設立しようと考えたことがありました。敬意をもって冥福を祈ります。敬礼
  1. 2023/01/17(火) 15:30:57|
  2. 追悼・告別・永訣文
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