昭和51(1976)年の明日1月20日に大和運輸が「宅急便」を始めました。ちなみに2005年11月1日の会社分割で大和運輸は業務ごとに会社を分割しているので現在のヤマト運輸と分割以前の大和運輸は別会社になり、後者はグループとしてのヤマト・ホールディングスが継承しています。
「宅急便」はヤマト運輸の登録商標なので他の同業者は日本郵便のペリカン便や西濃運輸のカンガルー便、佐川急便の飛脚便、名鉄運輸の小熊便のような自社商標か一般用語の「宅配便」を使用しなければなりません。また大和運輸は昭和32(1957)年から「親子クロネコ」をロゴマークにしているので業務開始の時点で「クロネコヤマトの宅急便」でした。余談ながら野僧は車力の管理小隊長の時、当時のヤマト運輸の「日本のわがまま運びます」を小隊のモットーにしていたため親子クロネコのマークを小隊の部隊章にしたいと考えてヤマト運輸の青森支店に使用許可を打診したところ、野僧が航空自衛隊の輸送幹部と知った支店長が話を本社に上げてしまい(日本通運が独占していた外注輸送に喰い込む人脈を探していたらしい)、当時の小倉昌男代表取締役から説明を受けました。するとアメリカの運輸企業・アライズ・バン・ラインズと業務提携した時、父親の前社長が先方のリアルな「親子茶トラネコ」のマークが気に入って使用許可を受け、広報課長にデザインを命じたところ9歳の娘が描き写した親子クロネコに決まったとのことでした。ただし、不審者の悪用防止のため小隊の部隊章化は認められませんでした。
「クロネコヤマトの宅急便」は昭和46(1971)年に小倉昌男社長が就任すると1973年の第4次中東戦争によるオイル・ショックが起こり、燃料の高騰によって経営収支が急激に悪化したため起死回生の一手として郵便局の独占事業だった小包の宅配に参入したのです。しかし、当時は中小運輸会社に過ぎなかった大和運輸が国営の郵便局に対抗するには利用者に新たな魅力を提供しなければならず、そこで「翌日の配達」を売り物にしました。公務員待遇の郵便局員の勤務時間は昼間に限定されていて小包の移動も夕方から朝までは停止します。そこで大和運輸は24時間稼働する集配基地を各地に設置することで受け付けた小包を夜間にトラックで宛先地区の集配基地まで運び、朝には配達できる準備を整えて翌日に届けるサービスを始めたのです。さらに配達時間も夜間から早朝まで拡大するなど国営の郵便局には不可能なサービスを提供することで存在感を強化して、当初は関東地区限定だった業務範囲を次第に拡大して1997年には郵便局と同様に離島や山間部を含む全国で「クロネコヤマトの宅急便」を利用できる態勢が完成しました。
しかし、当時の自民党政権は郵便局を国債の安全な引き取り手として保護することに躍起になっていて大和運輸を急先鋒とする民間企業の参入を郵政省(荷物への書簡の同封の禁止など本来は適用外の郵便の基準を強制した)だけでなく運輸省(主に車両の構造基準と交通規制)も協力して法的制限で妨害し、大手百貨店の商品配達やコンビニエンス・ストアでの受けつけまで利用する念の入れようでしたが小泉純一郎政権による2007年の郵政民営化で表面上は沈静化しました。今ではサービスを競い合っています。
- 2023/01/19(木) 16:20:39|
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