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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月25日・日露戦争地上戦の勝敗を決した黒溝台会戦が始まった。

明治38(1905)年の明日1月25日に日露戦争における地上戦の勝敗した黒溝台(こっこうだい)会戦が始まりました。
明治37(1904)年2月8日に戦端が開かれ、日本が2月10日に宣戦布告して始まった日露戦争の地上戦は乃木希典愚将の旅順要塞攻囲戦ばかりが有名ですが、実際は満洲を主戦場として明治37(1904)年4月30日と5月1日の鴨緑江会戦、同年5月25日と26日の金州南山の戦い、同年8月24日から9月4日の遼陽会戦、同年10月9日から24日の沙河会戦で日本陸軍が辛勝を拾い続け、ロシア陸軍は満洲軍総司令官のクロパトキン大将がお家芸の撤退戦略を常用したため沙河会戦以降は奉天の南で対峙しましたが、日本陸軍は深追いすることを避けて旅順攻囲戦で乃木希典愚将の第3軍が浪費して欠乏状態に陥っていた弾薬と兵員の到着を待って膠着状態に入っていたのです。一方、ロシア陸軍も当時はシベリア鉄道が単線だったため奉天で貨物を下ろした車両を返すことができず輸送力が先細りになって弾薬と兵員、食料や医薬品が欠乏していました。
そんな中、ロシア軍は消極的なクロパトキン大将に見切りをつけ、勇将・グリッペンベル大将に指揮権を与えて攻勢に転換させようとしましたが、前任の陸軍大臣として政界と軍内に豊富な人脈を築いていたクロパトキン大将は陸海満洲軍総司令官の地位を譲らずグリッペンベル大将は陸軍部隊の3分の1を与えられただけでした。それでもグリッペンベル大将が反転攻勢を企図して始まったのが黒溝台会戦です。
グリッペンベル大将は先ず世界最強のコサック騎兵による威力偵察を試み、日本陸軍の配備状況を探索するのと同時に可能であれば後方の兵站拠点の営口を襲撃して物資を焼き払うと言う大胆な作戦を独立ザカスピ・コサック旅団長のミシチェンコ中将に命じました。そして1月9日に奉天を出発したミシチェンコ中将の部隊は1月12日に営口に到着しましたが破壊活動は不十分に終わったものの8日間で日本陸軍の弱点を確認しました。
当時、日本陸軍は奉天の南側を塞ぐように鳥が翼を広げたような陣形を作っていて東側から黒木為楨大将の第1軍、野津道貫大将の第4軍、奥保鞏大将の第2軍、秋山好古少将の騎兵旅団と言う配列で、40キロの戦線を8000人で守る秋山旅団が弱点でした。
秋山旅団は同じ騎兵としてロシア陸軍の行動を「大作戦の兆候」と推察して満洲軍総司令部に再三警告しましたが、「凍結した大地では陣地を構築できない=攻勢はあり得ない」と受けつけず、焚火をして掘った地下壕に馬を隠し、溝とその土を盛った陣地に丸太で屋根をつけ、上に土を被せて凍結させた塹壕を構築して攻撃に備えたのです(陣地の構築方法は第2軍歩兵第34連隊の中隊長として参戦した曾祖父・青山寛少将の体験談)。
1月中旬にグリッペンベル大将は自分が指揮できる10万人の兵力で秋山旅団に襲いかかりますが、それでも満洲軍総司令部は前回同様の威力偵察と思い込み第8師団を増援に送っただけでした。結局、司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」では「日本陸軍騎兵の父」になっている秋山好古少将の騎兵旅団は塹壕戦で耐え抜き、旅順から第3軍が到着したのを知ったクロパトキン大将が撤退を命じたためまたもや辛勝を拾うことができたのです。
  1. 2023/01/24(火) 15:25:55|
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