1968年の明日1月30日にベトナム戦争で北ベトナムによるテト攻勢が始まりました。テトと言うのは太陰暦の元旦のベトナムでの呼び名です(中国の春節)。
ベトナムはカンボジア、ラオスと共にフランスの植民地で、日本が1941年12月8日に第2次世界大戦に参戦してイギリス、オランダに勝利した後もナチス・ドイツに降伏して成立したヴィシー政権を友邦として継続支配が認められていました。ところが1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦によってナチス・ドイツに敵対するドゴール政権が主導権を握ると東南アジアでも日本と紛争状態になり、当然の結果として降伏しました。
日本の東南アジアでの統治政策は平成の天皇が謝罪を繰り返すような搾取や収奪ではなく近い将来の独立に向けての国家建設を主眼として政治制度や法律を整備して近代国家としての基盤を固め、学校教育を進め、現代医療を普及させ、耕作地や水路の整備と農業指導によって食糧自給力を向上させ、道路や水道、電気や電話を建設するのと同時に再びヨーロッパの植民地にならないように軍を創設して国防力を強化しました。
ところがドゴール政権の厚かましさで連合国に割り込んだフランスは日本の無条件降伏を受けて戦勝国気取りでベトナムの植民地支配を再開・奪還するつもりで軍を派遣してきましたが、陸軍中野学校出身者を中心とする日本軍の軍人が多数加わったベトナム軍は頑強に抵抗し、カンボジア、ラオスを巻き込んだインドシナ紛争に発展しました。結局、フランスはアルジェリアなどアフリカの植民地でも独立運動が始まったためベトナムから撤退せざるを得なくなり、長細い国土を北緯17度で2分して共産党中国の支援を受けた北ベトナムとフランスに後事を託されたアメリカの傀儡政権の南ベトナムとの間で1960年からベトナム戦争が継続したのです。
ベトナム戦争では北ベトナムが農村に武器や弾薬を備蓄し、農夫に変装した兵士が集結すると攻撃を開始し、撤退時も農村に潜伏するゲリラ戦術を常用したため正規軍との戦闘以外は考えていなかったアメリカ軍は開戦当初から劣勢に陥っていて、それを見て取った北ベトナム軍が南全土での一斉攻勢で勝機を掴もうとしたのがテト攻勢でした。
この攻勢では南ベトナムやアメリカの政府機関や公共施設、企業、軍事基地が攻撃目標になり、当時の首都・サイゴンではタンソンニャット国際空港やアメリカ大使館が北ベトナム軍ゲリラに占領されました。これに対してアメリカ軍は北ベトナムの都市へ大規模な無差別爆撃を実施して「アメリカ軍は文民を殺せないのが弱点」と思い込んでいた北ベトナム軍を驚愕させて攻勢の力を弱めました。しかし、アメリカ国内では反戦活動家=共産主義者が無差別爆撃を戦争犯罪と糾弾し、「戦争終結は近い」「正義=アメリカは勝つ」と信じていた支持派も実際の戦況を知り、戦争の正当性に疑問を抱くことになりました。
この攻勢自体は毛沢東主義を実践する北ベトナムが南の支配地域でカソリックの修道女を含む一般市民を路上裁判で親アメリカ=売国奴と断定して多数処刑していることに都市部の民衆が反発し(日本では報道していない)、ゲリラ戦の基盤を失ったことで各個撃破されて失敗に終わりましたが、宣伝効果は勝敗を決するほど絶大でした。
- 2023/01/28(土) 14:17:46|
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