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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月31日・これぞ「川筋者」の政治家・田中六助の命日

昭和60(1985)年の明日1月31日は五木寛之さんの代表作「青春の門」で描かれている遠賀川流域の筑豊炭鉱で働くヤクザと堅気の区分けがつかない荒くれ者たち=「川筋者」の気風そのままの政治家・田中六助さんの命日です。
現在は筑豊出身の政治家と言えば麻生太郎元首相になりますが、こちらは炭鉱を経営する財閥の家系であり、明治の元勲・大久保利通さんの息子の牧野伸顕伯爵の曾孫で吉田茂首相の孫に当たる名門の血統の学習院大学の卒業生なので「川筋者」には入りません。
田中さんは大正12(1923)年に遠賀川の源流がある福岡県田川郡上野村で布団屋の3男として生まれました。7ヶ月の早産だったため英彦山神社前の住人で豊臣秀吉さんの御前相撲で35人抜きした怪力無双の毛谷村六助さんにあやかって命名されました。
地元の旧制田川中学校から興亜専門学校=現在の亜細亜大学に進学すると海軍飛行予備士官として搭乗員になり、三重県鈴鹿航空隊で特別攻撃隊としての出撃を待ちながら後輩の指導に当たりましたが出撃命令が下らないまま敗戦を迎えました。
敗戦後は政治家を目指して早稲田大学政治経済学部新聞学科に進学し、昭和24(1949)年に卒業して日本経済新聞に政治部記者として入社しました。記者としては第3次吉田茂内閣で初当選ながら異例の抜擢を受けた池田隼人大蔵大臣担当になり、大蔵官僚出身の大蔵大臣として多大な業績を上げながら失言で退任に追い込まれてからも親交を保ち、昭和35(1960)年に日本経済新聞社を退職して衆議院選挙に出馬しましたが落選し、昭和38(1963)年に再出馬して当選を果たしました。再出馬に当たっては池田首相が強く根回ししたため当選後は宏池会に所属して大平正芳さんの側近になりました。
ここからが「川筋者」の面目躍如で池田首相没後の派閥の後継者争いでは佐藤栄作首相を利用して大平さんを会長にするとその後も派閥の力学を用いた謀略で暗躍し、昭和53(1978)年に第1次大平内閣が発足すると内閣官房長官に就任しました。官房長官としては口下手な大平首相の分まで喋りまくり、放言・失言・暴言を連発させてマスコミからは「おしゃべり六さん」と仇名されました。昭和54(1979)年の内閣改造では自民党筆頭副幹事長に移動しましたがロッキード裁判の報道が過熱している中、浜田幸一議員=ハマコ―のラスベガスでの巨額賭博事件が発覚するとヤクザ同士の手打ちのように引導を渡して辞職させました。
昭和55(1980)年に大平首相が急逝した後、宏池会の会長に鈴木善幸さんが就任すると渡世の義理を通して首相にはしましたが早々に見切りをつけ、続く中曽根康弘内閣で自民党の政調会長になると鈴木首相と同じく宰相の器ではない宮沢喜一さん潰しに躍起になりましたが、田中さんが亡くなって2年後の昭和62(1987)に就任してしまい、やはりこの国を亡国の憂き目に堕としました。
最晩年は持病の糖尿病が悪化して急激に体調が悪化しましたが、吉田学校の卒業生の退陣で組織が劣化して動脈硬化の症状を呈していた自民党で最期の悪足掻きのように策謀を巡らしながら亡くなりました。62歳でした。
  1. 2023/01/29(日) 14:44:05|
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