fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

新右翼「一水会」の鈴木邦男元代表の逝去を悼む。

1月11日にこれまでの愛国者とヤクザの区分けがつかない任侠右翼とは一線を画し、言論人としても左翼との論戦を繰り広げたことで新右翼=理論派右翼と呼ばれた「一水会」の鈴木邦男元代表が亡くなったそうです。79歳でした。
「一水会」と言う名称は毎月第1水曜日に勉強会を開催していることに由来しますが、他の右翼団体が反ソビエト連邦・反共産党中国の裏返しに親アメリカなのに対して「アメリカこそ戦後日本を堕落させた元凶」と主張していて異色の存在です。
鈴木元代表は昭和18(1943)年に福島県郡山市で税務署員の息子として生まれ、父親の仕事の関係で高校生になるまでは東北各地を転々として育ったそうです。その間に母親が病気になり、生長の家の地方講師(息子は盾の会1期生)の祈祷で回復したため信者になりました。仙台市の東北学院高校2年だった昭和35(1960)年10月12日にテレビで社会党の浅沼稲次郎委員長が山口二矢くんに刺殺される中継映像を見て「同じ17歳の少年が社会のことを考えた末に人の生命を奪い、自決した」ことに強い自責の念を感じたそうです。そのため翌年の春休みに上京すると山口くんが加盟していた日本愛国党本部を訪ねて赤尾敏代表に教えを受けました。
そんな鈴木くんが高校卒業目前の聖書の授業中に右翼系文化人の著書を隠れて読んでいたのを教師に見つかり、取り上げられてストーブに投げ込まれたことに怒り、職員室で殴ったため校内の教会に懺悔に通うことを条件に半年遅れで卒業できたそうです。卒業後は昭和42(1967)年に1年遅れで早稲田大学政治経済学部政治学科に入学しますが学生運動が吹き荒れていた中、生長の家の学生道場に入って愛国教育を受けました。
その後は右派の活動家として共産革命を叫ぶ左翼活動家との抗争を繰り返し、学生運動を続けるために大学院に進学しますが、右派の全国学生組織内での路線対立で委員長を1カ月で退任させられると失意のうちに退学して仙台の実家に帰りました。
昭和45(1970)年に販売や広告担当者として産経新聞に就職すると盾の会1期生(「一水会」と命名した創設メンバー)のアパートに居候し、ここで毎月30冊の読書ノルマを自分に課して理論武装を進め、同年11月25日に市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で友人の森田必勝さんが平岡公威さんに殉じて自決したことで「国士」を標榜しながら政治活動を捨てて就職した自分の変節を悔やみ、遺志を継ぐことを決意して「一水会」を結成したのです。
「一水会」は「売国奴」と断定した企業や政治家などに街宣車を乗りつけての嫌がらせで金品を奪う任侠右翼とは違いあくまでも精神・思想面での活動でしたが、昭和48(1973)年に防衛庁が催し物にストリッパーを呼んだことに抗議して会場に乱入する事件を起こしています。鈴木さんはこの事件で逮捕されて産経新聞を懲戒解雇されますが、かえって知名度が上がり、「元記者」と誤解した新聞や雑誌から記事の依頼が来るようになって右翼の論客として活躍するようになりました。「たかじんのそこまで言って委員会」の常連だった頃の視聴者(思想的には同調しない)として冥福を祈ります。
  1. 2023/01/31(火) 15:45:54|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ386 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ385>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8208-0abf8338
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)