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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月2日・小僧で菩薩の行基初代大僧正が遷化した。

天平21(749)年の2月2日に弘法大師空海さまよりも100年前に民衆に佛教を広めて救済に取り組みながら朝廷からは命令に背く異端者として「小僧」と蔑まされ、民衆の絶大な崇敬に利用価値を認めると最高位の僧階としては日本初の「大僧正」を与えられ、遷化後には「菩薩」と最大級の尊称を贈られた行基さまが遷化しました。81歳でした。
愛知県豊橋市には行基さまの開基と伝承される大岩町の岩屋観音、小松原町の東観音寺、雲谷町の普門寺あるためなのか大学の日本史の講義で行基さまを習って妙に詳しくなり、おかげで小浜の僧堂にいた行基くん(本名)と言う雲衲=修行僧と話が弾みました。
行基さまの伝記は遺骨を納めた壺に刻印されている「大僧正舎利瓶記」と平安時代初期の説話集「日本国現報善悪霊異記=通称・霊異記」で詳細に述べているので大学の講義は両者の照合・比較で進みました。先ず生誕地については「大僧正舎利瓶記」では天智天皇7(668)年に河内国の現在の堺市で大陸からの帰化人と地元豪族の娘の間に生まれたとありますが「霊異記」では越前国頸城郡の地方豪族の出身になっているようです。
天武天皇11(682)年に15歳になると現在の明日香村の大官大寺で得度し、持統天皇5(691)年には現在の御所市の高宮寺で受戒を受けて飛鳥寺や薬師寺で唯識論の法相教学を学びました。大宝4(704)年に修行を終えて現在の堺市の生家を寺にすると母親を一緒に住まわせますが、弘法大師にも高野山の麓に母親を住まわせて22キロの山道を9度も通ったと言う九度山の説話がありますから衆生済度=庶民派の高僧の定番エピソードなのかも知れません。その後、母親を連れて大和国添下郡の佐紀堂、生駒山の草野仙房に移り住んで親孝行と修行を両立させますが和銅4(711)年に亡くなり、3年間喪に服するとそこからは行動が一転しました。
知識結と呼ばれる新しい形の僧俗一体の宗教教団を結成して近畿地方を中心に貧民救済や治水、架橋、井戸掘りなどの土木工事(これも弘法大師と共通する)に尽力する一方で各地に寺院を建立して佛教の布教にも励んだのです。しかし、当時の朝廷は佛教を特権階級だけが加護を受ける独占的教学・法要儀礼と考えていて僧尼令によって身分を厳格に管理していたので市井で活動する行基さんの教団は危険この上ない存在でした。そのため養老元(717)年には「小僧(しょうそう=劣る僧侶)行基」と呼んで糾弾する詔勅を出して処罰しています。しかし、行基さんを止めることはできず、天平2(730)年の詔勅では「数千人から1万人を集めて説教し、迷わしている」と述べているように教団が拡大・発展したため国家事業に利用するように方針転換したのです。
特に聖武天皇は国分寺・国分尼寺と東大寺の銅製大佛像の建立と言う国家事業に行基さんの協力を求め、天平17(745)年には前述の「大僧正」の僧階を与えました。そうして行基大僧正は主に勧進(寄付集め)に努めますが、大佛の建立が始まっていたこの日に奈良市内の菅原町にある喜光寺で遷化し、生駒山の麓にある往生院で荼毘に伏されて、母親の最期を看取った草野仙房を寺に改めた竹林寺に葬られたのです。朝廷は行基大僧正に「菩薩」の称号を贈り、衆生からは「行基菩薩」と呼ばれて崇められました。
  1. 2023/02/02(木) 14:39:22|
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