竹下登内閣で就任して以降、内閣官房の事務方トップの官僚として宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市までの7代の内閣を7年3カ月にわたって支えてきた石原信雄官房副長官が1月29日に亡くなったそうです。96歳でした。
石原副長官は大正15(1926)年(=生まれて1カ月後に昭和元年になった)に群馬県で生まれ、旧制・太田中学校から桐生高等専門学校に進学したものの中退して仙台の旧制第2高等学校に再入学・卒業すると東京大学法学部で政治学を専攻して昭和27(195)年に旧・内務省の部署が独立した地方自治庁に入庁しました。
地方自治庁の官僚は各都道府県への出向が多く、石原さんも自治庁・自治省(内務省の復活の替わりに昭和35=1960年の日米安全保障条約の改定と抱き合わせで昇格した)と茨城県や鹿児島県、岡山県の往復で官僚生活を過ごし、昭和59(1984)年に事務次官に就任して昭和61(1986)年に退官しました。退官後は財団法人の地方自治情報センターに天下りしましたが、わずか1年で昭和62(1987)年に竹下内閣の官房副長官に就任したのです。
石原副長官が在任した7年3カ月は竹下内閣では昭和の陛下が崩御されて神の御代が終わり、宇野内閣は「指3本」の女性スキャンダルで崩壊し、海部内閣では湾岸戦争が勃発して自衛隊の海外派遣の可否で国論が2分され、宮沢内閣は無能ぶりをさらけ出して政権交代を招き、細川内閣は県知事も務まらなかった馬鹿殿らしく嫌になれば政権を投げ出し、羽田内閣は与党内に巣食う政界の破壊屋の暗躍で内部崩壊し、自社連立と言う異常な組み合わせで成立した村山内閣は阪神大震災に対処することになるなど波乱続きでした。
その中で石原官房副長官の名前がマスコミを飾ったのは「平成」と言う失敗作の元号の決定に至る経緯の裏話と宮沢内閣の最大の亡国的失策である「河野談話」の実態の証言、そして自治省の先輩である鈴木俊一都知事の後任としての都知事選挙への出馬でした。
中でも「河野談話」では韓国を訪問した宮沢首相が記録上は戦前に死亡している吉田雄兎(通称・清治=福岡県遠賀郡芦屋町出身)の「軍の命令による済州島での女性狩り」の告白を利用して朝日新聞が捏造した戦時売春婦問題を突きつけられ、朝日新聞が韓国のマスコミと共同で断罪報道を展開する中、退陣直前になって河野洋平官房長官が発表した謝罪の談話が、実際は膨大な当時の文書を漏れなく確認しても日本政府や軍、朝鮮総督府が売春業者の娼婦の確保に介入したことを示す記録は見つからなかったにも関わらず韓国側の「日本が責任を認めれば時代は沈静化する」と言う説明を信じて発表したことを明らかにして、ますます過熱させていた朝日新聞の断罪報道に冷水を浴びせました。
その後、河野談話が韓国と中国に対日外交カードにされて国際連合人権委員会などで日本を非難する決議が採択され、戦時売春婦少女像を世界各国に乱立させているのに対して安倍晋三政権が毅然として反論する根拠になったのが石原副長官の証言でした。安倍政権の外交努力によって戦時売春婦問題の虚偽が周知されたのも石原官房副長官の功績です。ただし、自治省OBとして平成の大合併への関与は晩節を汚しました。冥福を祈ります。
- 2023/02/04(土) 13:17:30|
- 追悼・告別・永訣文
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0