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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月6日・「名は体を表す」?仲哀天皇が崩御したらしい日

日本書紀によれば第14代・仲哀天皇が即位して9年目(現代の歴史検証的には4世紀)だった明日2月6日に熊襲征討の戦さで崩御しました。52歳だったとされています。
明治天皇以降は元号をそのまま諡(おくりな)にしていますが、それ以前は崩御後に体を表わして贈号されていたので仲哀天皇の生涯が諡の通りだったなら日本の女傑=女武者の元祖・神功皇后を妻としているだけに勝手な推理をしてしまいます。
仲哀天皇は神話上の英雄で12代・景行天皇の皇子の日本武尊と第11代・垂仁天皇の皇女の間に生まれたとされています。ただし、古事記や日本書紀での日本武尊は父の景行天皇に嫌われて(恐れられて)九州や北陸、関東の皇室に服従しない部族の征討を命じられ続け、最期には伊吹山の頂で故郷の大和を思いながら過労死して白鳥になったと記述されているのであまり皇位継承の序列が高くなかったのかも知れません。実際、13代・成務天皇は日本武尊の兄=仲哀天皇の伯父で高齢になるまで皇子ができなかったために即位から48年目になって仲哀天皇を31歳で立太子させ、13年後に成務天皇が崩御して2年後に即位しました。そのため即位前に従妹にあたる妻との間に皇子を2人儲けていました。
現代の歴史検証上、仲哀天皇は実在性が低いとされていますが日本書紀では即位後、白鳥になって飛び去ったとされる父・日本武尊を慕って全国の律令国に白鳥を送ると異母弟が奪ったため誅殺したと言う血統に相応しい逸話が記録されています。とは言え日本書紀には容姿端麗にして身長は1丈(3メートル)とありますからこれでは怪物です。
即位して2年目に紀伊国の徳勒津宮に参詣している時、熊襲の離反の報告を受け、越前国の角鹿に残していた神功皇后と長門国の豊浦宮で合流すると筑紫国の橿日宮=現在の香椎宮へ進軍しますが、ここで神功皇后が受けた「痩せた熊襲の土地を攻め取るよりも海を越えて豊かな新羅を攻めるべし」との神託を信じないで征討を続けた結果、橿日宮で熊襲の逆撃を受け、戦いの中で矢に当たって崩御したとされています。
その一方で神功皇后が語る神託を仲哀天皇は神のために琴を奏でながら聞きましたが、「高い山に登っても海の向こうの国などは見えない。神託は嘘だ」と演奏を止めてしまい、神が怒り始めたため武内宿禰さんが再開するように促しましたが、その時には崩御していたと言う伝承もあります。
どちらにしても遺骸は武内宿禰さんによって長門国の豊浦宮へ運ばれ、殯(もがり=棺に納めて安置し、腐敗が始まるのを待って死を確認する古代の葬送方法)に伏されました。現在は下関市長府の日頼寺の裏山に宮内庁管轄の殯跡があります。一方、仲哀天皇の遺骨は現代の大阪府藤井寺市に埋葬されて恵我長野西陵になっています。
その後、神功皇后は仲哀天皇が崩御して10カ月後に応神天皇を産んで(出陣直前に性交したことになる)子連れて熊襲を討ち滅ぼし、そのまま対馬海峡を渡って朝鮮半島に進攻してこちらも屈服させ、凱旋すると反乱を企てた先妻の皇子たちも討伐しました。
結局、仲哀天皇は明治以降の神国教育と大陸進出を正当化する根拠とされた神功皇后の英雄譚の引き立て役にされた「哀」れな夫婦「仲」の天皇だったのではないでしょうか。
  1. 2023/02/05(日) 14:33:13|
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