昭和44(1969)年の明日2月8日の午前11時59分に訓練飛行から小松基地に帰投するため金沢市内上空を高度1000メートルで通過していた第6航空団所属のF-104J栄光がレドーム付近に落雷を受けて操縦不能に陥ったためパイロットが緊急脱出して無人になった機体が金沢市内の農家に墜落して炎上する事故が発生しました。
墜落現場の金沢市泉は金沢城=兼六園や金沢市役所から南南西に約3キロの市街地で重量12トンほどの戦闘機が時速約400キロで2階建て住宅の1階を突き抜けて道路にめり込む形で墜落・爆発・炎上したためバラバラになった主翼や尾翼、エンジンが約240メートル吹き飛び、道路上を火が点いた航空燃料が走るように広がったので周囲の住宅を含む17戸が全焼して4人が死亡、22人が負傷する惨事になりました。
30歳で2尉のパイロットは飛行時間1827時間、Fー104Jに機種転換してからも554時間を経験しているベテランで落雷直後には高度を上げようとしましたが操縦不能状態に陥っていることを確認すると管制塔にエマージェンシー=非常事態を宣言して緊急脱出したのです。パイロットは落下傘で降下して保育所の近くに着地しています。
野僧が沖縄でFー104J栄光を整備していた頃にもスコール雲の中で主翼に落雷を受けた機体がありました。Fー104J栄光の主翼内には燃料タンクがないため発火には至らず(翼端のチップ・タンクは投下した)、大穴が開いて揚力が低下した上、機上レーダーと全ての計器がアウトになった機体をパイロットは神業で操縦して基地まで帰り着きました。その時はパイロットと整備員がエプロンにランウェイに向かって整列してランディングするのを見守り、タイヤが地面に着いた瞬間には拍手が起こりました。
一方、小松基地ではこの事故の2年前の1967年12月12日にもFー104J栄光が金沢港沖35キロで落雷を受けて墜落していて、地元では「鰤起し」と呼ばれる冬季の落雷は重大で深刻な問題なのです。知人の元小松気象隊長の見解では「Fー104J栄光はそれまでのFー86F旭光やFー86D月光、Tー33A若鷹とは比べ物にならない超音速と上昇力を有しているため当時の気象隊や気象学会が経験していない高速度と高高度での気象現象を発掘してしまい事故防止に関する対策が示せなかったのではないか」とのことでした。そこで小松気象隊は独自に開発した雷電探知装置を能登半島各地に設置していて地面の帯電量を測定して小松基地に送り、気象隊は上空の雷雲の観測データーと照合することで落雷が発生する場所と時間を予測しているそうです。
航空自衛隊では2年後の昭和46(1971)年7月30日の雫石での衝突事故でも自衛隊のパイロット2人が緊急脱出して生き残り、追突した全日空の乗客乗員162人が死亡したことをマスコミが問題化したため上空で火災や操縦不能に陥っても事実上緊急脱出は禁じられ、平成に入って石塚勲航空幕僚長が「パイロットよ生きて帰れ、生きて帰って教訓を語れ」と解禁するまで機体と心中する苛酷で非情な不文律がパイロットに課せられていました。しかし、現在もパイロットが緊急脱出できるのは山岳地帯か、海上で漁船などがいないことを確認できた場合に限られていて多くは脱出し遅れて殉職しています。
- 2023/02/07(火) 13:19:34|
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