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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ394

「今度の演習は長くなりそうだ」「うん、官舎の奥さんたちとも話し合っているわ」松本駐屯地の官舎では第3中隊長に就任した安川1尉がいつもの演習と同じ準備をしながら山のような下着と靴下を持ってきた聡美に声をかけた。最近の聡美は安川1尉が群馬県の山岳地帯の高圧鉄塔に設置したクレイムアの点検や鈴鹿山系での作業中に銃撃を受けて犯人を射殺した岡野3曹の名古屋地方裁判所の裁判の傍聴などで家を空けることが多く、治安出動が一段落して通勤生活に戻った他の隊員の妻たちから同情されている。そんな多忙な中、安川1尉は第3中隊長に就任したが前任者は退官当日まで防衛出動が発令されて定年が延期になることを期待していた古典的武人だったので中隊の雰囲気も国営放送の大河ドラマで見る木曽義仲や武田晴信=信玄の信濃勢のようなところがある。その点、安川1尉は久居の新隊員課程で鎌倉武士の生き残りのようだったモリヤ1尉から自衛官としての基礎を学び、名寄でもモリヤ1尉の直弟子の田島1尉の薫陶を受けたので適材適所だった。
「奥さんたちは何て言ってるんだ」「ロシア軍が新潟に上陸して長野を抜けて東京に向かうからクレージー・サーティーの出番だって」「拙いなァ。誰が漏らしたんだ」聡美の説明では先日、中隊長以上が集められて連隊長から直接伝達された次のロシア軍の侵攻に関する情報が筒抜けになっている。おそらく妻に説明する質疑応答の中で小出しに漏らしたヒントで見事に推理されてしまったのだ。第13普通科連隊は長野県と新潟県の県境の妙高山の麓にあると関山演習場での演習中に侵攻を受ければそのまま戦闘に移行する覚悟でいる。そのため実弾を車載していく。しかし、現段階ではロシア軍の揚陸艦の出港準備や地上兵力の軍港への移動などの具体的兆候は偵察衛星で確認されていないため「予定」と位置付けている。その一方で富士の駒門駐屯地から機甲教導連隊が新潟県内の駐屯地に移動してきて作戦準備は確実に進んでいるのだ。実は傍受した軍人の会話の内容を照会された在ロシアの防衛駐在官が外務省の外交官と協力して政権内の諜報を進め、「本格的侵攻によって対日戦の主導権を奪取する方針が決定事項になっている」との証言を得ていて自衛隊の上層部もそれを知っていた。
「信州人の奥さんたちはロシア軍が長野市内に来ると善光寺が破壊されるって心配してるの。善光寺はチベットの佛教弾圧に抗議して北京オリンピックの聖火リレーのスタート地点になることを拒否したでしょう。中国の代わりにチベットと同じことをやりそうじゃない」「確かにロシアも宗教弾圧は得意だからな」夫が実戦に投入される話題が意外な方向に発展していることを聞いて安川1尉は安心するのと同時に呆れてしまった。善光寺が北京オリンピックの聖火リレーの出発地点を拒否した背景にはタイの僧侶の依頼を受けたモリヤ坊主が山内の若い僧侶たちにチベットで行われている惨劇の情報を流して「日本の佛教界としての抗議行動」を扇動した影響もあるのだが安川1尉夫婦は知らない。
「そうなると長野県に侵攻させないように妙高山に立て篭もって迎え討たなければいけないな。ロシア軍は上杉謙信の越後勢、こちらは武田勢だ」気がつけば安川1尉は中隊で古参陸曹たちと雑談している時の話ぶりになっていた。実際、演習中にロシア軍が新潟県内に上陸してくれば海抜2454メートルの妙高山を要塞化して国道18号線を南下してくるロシア軍機甲部隊に遊激戦を加える予定だ。今回の演習では連隊3科の運用訓練幹部は演習の一般命令と同時進行で作戦計画も立案することになり、職場で連日徹夜していた。北海道や九州では防衛出動待機命令を受けて各部隊が作戦計画で策定していた重要守備地点に陣地を構築しようとすると情報を察知した新聞の販売店が地域の支社に通報し、反対派弁護士の説得を受けた地権者が使用を拒否する事例が続発している。それだけでなく国有地などでも環境団体や動物保護団体が現地に乗り込んで反対運動を始めるので断念せざるを得ない。その点、演習場なら場所はロシア軍に知られていても妨害を受ける心配はない。仮に別の場所に陣地構築しても地域住民の環視を受けていれば土木工事を始める前に多くの自衛隊の車両が出入りするだけで反対派住民が斥候と化してロシア軍に提供する情報の収集に励むはずだ。
「和也さん、私と穂高と梓のために絶対に生きて帰ってきてね。足が失くなっても手が失くなっても目が見えなくなっても生きて帰ってきて」夕食後、安川1尉が穂高と梓を風呂に入れ、手料理の晩酌を楽しんだ後、聡美を抱くと腕の中で独り言のように思いを訴え始めた。しかし、その真摯な訴えも安川1尉は胸の中で松本に転属して間もなく聡美の母親から届いた江戸川乱歩の短編「芋虫」に重ねてしまった。「芋虫」は戦争で両手足と片目、聴力、発声を失った陸軍中尉の夫が「名誉の傷痍軍人」と持て囃されることに嫌気が差した妻が執拗に虐待する人間心理の暗部を描いた物語だが、あの母親は「戦争で傷つけば聡美もそうなる」と言いたかったのだろうか。それにしても聡美は母親似ではないはずだ。
  1. 2023/02/09(木) 13:32:42|
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