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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月12日・徳川将軍家の祖先・得川(とくがわ)親季が討ち死にした。

南北朝のため元号が2つある元中2=至徳2(1385)年の明日2月12日に東照神君・徳川家康公が永禄9(1566)年に朝廷の勅許を得て松平から徳川に改姓する時、源氏の血統であることを申告するために祖先とした得川親季(とくがわちかすえ)さんが討ち死にしました。
親季さんは上野国新田郡得川郷の生まれで、父親は坂東武者でありながら後醍醐天皇の反乱に呼応して鎌倉を攻め、執権・北条高時さんを討った新田義貞さんの3男でした。しかし、義貞さんの人物評は鎌倉を攻め落とした武功を上げながら足利高氏(後の尊氏)さんと対立すると楠木正成さんが「高氏には人望があるが義貞にはない。義貞の首を土産に和睦するべきである」と後醍醐天皇に提言し、湊川の戦いでは勝手に主戦場を離れて楠木さんを自害させ、南北朝の合戦が始まっている中、吉野の南朝に追放されて越前での軽率な行動で雑兵に討ち取られたため必ずしも芳しいものではありません。それでも南朝側の武将のため後醍醐天皇の孫が三河国に向かっている途中の信濃国浪合で幕府側の軍勢に遭遇して合戦になり、その戦いの中で一族と共に討ち死にした忠君の士とされています。
野僧も岡崎で聞いていた「徳川家は源氏の新田家の末裔である」と言う風説は大久保彦左衛門さんが「三河物語」で「徳川将軍家の祖は新田義重である。源氏の嫡流だったが一族の新田義貞の威勢に押されて新田領の隅の徳河郷に追いやられて徳河(とくがわ)氏と名乗るようになった。そして新田義貞が足利高氏に敗れたのを機に徳河郷を出て、その子孫10代ほどが諸国を行脚し、やがて子孫の1人が時宗の遊行僧になり、徳阿弥と号して三河国の酒井郷を訪れて男子を儲け、次に松平郷の松平太郎左衛門の婿になって酒井家の息子を家老にした。これが初代の松平親氏さまである」と紹介している三河武士内の伝承のようですが、家康公から依頼を受け、永禄5(1562)年の清須同盟で盟約を結んだ織田信長公の圧迫を受けた近衛前久さんや吉田兼右さんが改姓の勅許の申請に記した徳川家と得川氏の関係については極めて曖昧・真偽不明です。出自の松平氏は三河国でも山奥の加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)の土豪で、時宗の遊行僧として流れ着いて先代当主の信重さんに気に入られて娘の婿になった親氏さんの「得川氏の血統・末裔だ」と言う自己申告の引用に過ぎず、この自己申告自体が捏造の可能性も否定できません。
それだけでなく近衛さんと吉田さんは得川氏が南北朝の混乱の中で藤原家とも関係を持ち、名乗ることが許されたと言うオマケも付けて万事前例第一の宮中が勅許を許す世論工作に成功したのです。それにしても坂東の武家が「藤原」姓を名乗るのであれば平将門さまを討ち、全国の武家の藤原氏の祖とされる俵藤太=藤原秀郷さんの方が相応しいでしょう。
尤も尾張中村の農家の小倅の木下藤吉郎=羽柴秀吉さんが京都で零落した公家が坂東へ下向する旅の途中で知り合った田舎娘に産ませた子供になって、平家の血統として清盛様と同じ関白になったのですから、征夷大将軍になるには源頼朝公、足利尊氏公と同じ源氏の血統が必要だったのです。ただし、当時の家康公は永禄7(1564)年に三河一国を統一したばかりでしたからそこまでの大望は抱いていなかったはずです。
  1. 2023/02/11(土) 14:18:13|
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