佐渡島のレーダー地区への山道の登り口には除雪事故の殉職者の慰霊碑と今も冬季には作業に当たる中部航空施設隊第1作業隊佐渡作業班の待機用隊舎がある。熊谷基地の第2教育群から派遣された教育職の隊員たちはその待機用隊舎で生活していた。
「覚悟の上で来たが本当に玉砕するんだな」「教え子たちが逃げるって言わないんだから俺たちが尻尾を巻く訳にはいかないだろう。防府と違って2教にはプライドがある」警備に当たっていない夜には島内の商店から提供された酒類が配布され、ベッドで車座を作って酒席を始めている。防衛出動待機命令が発令された時、航空自衛隊では日本海の孤島レーダー・サイトの奥尻島、佐渡島、見島、海栗島各分屯基地の警備を強化するため新隊員課程が各航空団での戦時短縮課程に移行して仕事がなくなった防府南基地の第1教育群、熊谷基地の第2教育群の教育職の幹部と空曹空士を派遣することにした。ところが第1教育群では「まだ防衛出動ではないから退職は可能」と中隊長以下の教育職の隊員が揃って依願退職した。一方、第2教育群では全員が応諾して慣れない離島での基地警備訓練と作戦準備作業に当たっている。
「防府の連中は辞めたのは好いが大変な目に遭ってるそうだな」「営外者は近所の住人から臆病者、卑怯者って罵声を浴びせられるから女房子供も人目を避けて歩いてるらしい。家や車も投石で滅茶苦茶になってるみたいだ」「スーパーやコンビニでも『アンタに売る商品はない』って入店を拒否されるんだってよ」「山口県らしいな。幕末のまま変わってないんだ」幕末の毛利藩では幕府を支えて外国の脅威に対抗しようとする常識派=佐幕派と弱腰の幕府を倒して薩長が天皇の下で実権を握って外国を討ち滅ぼそうと言う過激派=倒幕派が対立して血みどろの内紛を繰り広げた。そして最初に藩の実権を握った常識派は粛清を始め、それに対して過激派は暗殺と反乱によって実権を奪った。その反対派を徹底的に排除する気風は今も県民性として濃厚に残っていて他県人が敬遠する理由になっている。
「それだけじゃあなくて実家に帰った空士たちも就職できなくてプー太郎してるんだ」「近所の目があるからって親が家から出さないそうだ。そうなると強制引き篭りだな」「戦時中に周囲に同調しない人間を非国民って迫害した話は映画なんかで見るけど今でもあるんだな」「平成になってネットで広まるようになったから酷くなったみたいだ」第1教育群の教育職が派遣を拒否した話題は新聞や民放各局が「自衛官による反戦行動」として賛辞を以って報道したが、インターネット上で「任務放棄」「敵前逃亡」と批判する書き込みが始まるとたちまち炎上した。インターネットでは拒否に至る内部情報の解説に始まり、新隊員課程の卒業アルバムから拒否した中隊長、区隊長、班長の個人写真を添付し、個人情報まで詳細に暴露されたため完全に晒し者になっている。防府南基地にある航空教育隊本部ではこの事態に当初は派遣を拒否した元隊員への懲罰として放置していたが、批判の投書や電話が殺到するようになると、かつてのモリヤニンジン3曹のような他の職種から教育隊に配置されている隊員を疑い、スマートホンやパソコンを押収して外部委託で発信履歴を調査したと言う。
「しかし、3術校の警備課程って奴は凄いな。マジで戦争を考えてるんだ」「レーダー・サイトでは狙撃戦で対処するって言うんだろう。おかげで俺たちも射撃教官扱いされてるが、あまり自信はないな」第1教育群への批判は顔を知っている隊員たちの苦労話になって幕を引き、今度は佐渡島に来て体験した第3術科学校警備課程の教育内容への感嘆になった。森田敬作定年2佐が策定した警備課程では広大な航空基地と離島や半島、高峰の山頂にあるレーダー・サイトでは全く異なる戦闘方式を想定していた。人員が限られる割に要防御地点が分散するレーダー・サイトでは警備職の隊員を狙撃手として登山道や要防御地点に配置して少人数で接近してくる敵を各個撃破すると言う戦術だった。そのため森田定年2佐が航空自衛隊のSOCの代わりに入校した富士学校のAOCで学んだ狙撃手の技法を教育していた。
「この島が俺たち自衛隊だけになればロシア軍は情け容赦なく攻撃を加えてくる。それで運よく生き残れば山を下りてロシア兵を狙って射つ。でも狙撃兵は捕まると残酷に殺されるらしいぞ」「それだけの恐怖心を与えるんだな」教育職の班長たちは警備職の空曹から教育を受けることに内心では反発していたが、極めて高度で具体的な内容に感服して今では「生きて帰れば芦屋に入校しよう」と希望するようになっている。狙撃1つとっても世界最多の殺害数を有するフィンランド軍のシモ・ヘイヘ少尉から第2次世界大戦でのソ連軍のヴァシリ・ザイツェフ大尉とナチス・ドイツ軍のヨーゼフ・アラーベルガー兵長、さらに女性狙撃手のリュドミラ・パヴリチェンコ少佐などの人物伝や狙撃技法の特徴を語られると射撃予習の時に村田経芳少将の「引き金は 心で引くな 手で引くな 暗夜に霜の 下りる如く引け」と言う和歌を紹介することしかできなかった自分が恥ずかしくなった。
- 2023/02/12(日) 14:22:06|
- 夜の連続小説9
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