屯田局員の妻・エレナが中国地方の日本海側の某基地に行って3ヵ月が経っている。ロシアが北海道に侵攻しようとして失敗したニュースを見て祖父母は「エレナの手柄だ」と誇らしげだったが屯田局員は寂しさと欲求不満で眠られない毎日を送っている。しかし、それ以上に休日を利用して某基地まで出かけて会ったエレナから聞いた思いがけない話に悩んでいた。
基地から外出できないエレナの案内で某基地のBX=売店の喫茶店に入るとコーヒーとジャム紅茶を頼んだ。ロシア式ジャム紅茶は店長がエレナの好みを訊いて作るようになった特製品だが、WAFたちも試飲して大人気になり壁に貼ってあるメニューにも加えられていた。BXまで来る間にも擦れ違う隊員たちは厳正な敬礼をしてきたが、腕を組んでいるエレナを見て男子は嫉妬、女子は羨望の眼差しを送ってきた。今では某基地の人気者になっているらしい。
「私にジエータイの士官になれって言うのよ」エレナ好みの熱いジャム紅茶と何故か屯田局員の好みに合った温度と濃さのコーヒーが届くとエレナは匂いを嗅ぎながら話を始めた。
「アーミーでもネービーでもエア・フォースでも好きに選べるんだって。それで士官候補生学校はアーミーが福岡県の久留米、ネービーは広島県の江田島、エア・フォースは奈良に在ってどこも半年以上住めるんだって。奈良は面白そう」エレナの興味はあくまでも観光目的であまり真剣に考えていないようだ。確かに奈良に半年なら古寺巡りには十分だ。
「士官って幹部自衛官のことだね。お前を中に囲いたいって言うんだな」「私が今の仕事を辞めると秘密が漏れることが心配なのね」これは自衛隊としては常識的な対応だが屯田局員としては賛成する訳にはいかない。エレナはあくまでも屯田局員の妻であり、屯田家の嫁なのだ。今は祖父母や両親も日本に切迫する危機に家族の1人が貢献していることを「国民としての責任を果たせている」と理解を示しているが、自衛隊の幹部になれば農家の嫁としての務めは果たせなくなる。何よりも自宅から通勤可能なのは海上自衛隊の下関基地だけだが、掃海艇2隻だけの小さな基地に今の仕事のような部隊があるとは聞いたことがない。
「俺は郵便局を辞めるつもりはないからお前が自衛隊に入れば今みたいな別居生活が続くことになるぞ」「今みたいな・・・嫌よ。私、断る」エレナも現在の別居生活は受け容れられていないようで屯田局員の指摘に即座に反応した。自衛隊としては「現在のロシアとの武力衝突が続く間、エレナの語学力を確保したい」と言うのが主たる目的だが、秘密の保護と身柄の安全確保と言う一石三鳥の思惑もあった。したがって武力衝突=ロシアの軍事行動が収束するまで貴宅はできそうもない。ならば外出を許可してカー・ホテルにでも行かせて夫婦の営みを済まさせてもらいたい。最近、屯田局員の頬や額には吹き出物ができているのだ。まだ鼻血は吹いていないが間近でエレナを見ていると危ない。
「屯田くん、どうやら双木さんが帰ってくるらしい」「前に言っていた暗殺部隊の潜入ですね」エレナに会ってきた翌日、通常勤務の屯田局員が対馬からの移住者の集落に宅配便を届けるためにバイクを走らせていると栗野駐在所の警察官に呼び止められた。今日の警察官は自衛隊と同じフィリッツ・スタイルの防弾用ヘルメットをかぶってベストを着ているが、これは防弾チョッキではなく防刃用だと聞いている。この警察官とは中国が大量に運び込んだ拳銃を持った在日半島人に銃撃された時以来、妙な信頼関係ができて警備情報を教えて注意喚起してくれている。以前も下関市内に自宅があり、地元国立大学の教授を務める妻が住んでいる双木外務大臣を狙う韓国軍の暗殺部隊が潜入する可能性について注意を受けた。屯田局員はそれを真剣に受け止め、元フランス外人部隊の加光寺の傍樹住職に相談してフランス軍の防弾チョッキと防弾バイク用ヘルメットをもらった。その防弾チョッキを羨ましがった警察官は屯田局員がかぶっている防弾バイク用ヘルメットに気がついて「白バイ警察官用の研究材料にするから貸してくれ」と言って1週間ほど預かっていた。その期間中に双木外務大臣が帰宅していれば生命が危ないところだった。一方、郵便局では採用されず同じ地区を回っている重中局員も「重い」「熱い」と拒否した。それでも「日本の安全規格外だ」と使用禁止にならなくて助かった。
「呂論島では沖で漁船が銃撃で沈められて掏り替わった中国軍が上陸した。海上保安庁も常駐して監視している訳じゃあないから船の数が増減しなければ疑うことをしないんだ」「ここも漁港が多いですから危ないですね」屯田局員の返事に警察官は大きくうなずいた。屯田局員としても双木外務大臣が立野官房長官と共に日本と韓国、中国、ロシアの武力衝突への対応で主導的立ち場にあることは新聞やニュースで知っているので否定はできない。それでも傍樹住職は「韓国軍の残虐性は常軌を逸しているから素人は逃げろ。回避行動も無駄だ」と言っていた。万が一、潜入した暗殺団と遭遇すれば軍用ヘルメットと防弾チョッキの防護力を信じながら全速力で一直線に逃げるしかない。まだ持っているMK3手榴弾はどうしよう。

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- 2023/02/17(金) 15:24:40|
- 夜の連続小説9
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