2月14日に豊田自動織機の発明者で創業者の豊田佐吉さんの孫で自動車製造を始めた豊田喜一郎社長の長男にして豊田自動車工業と豊田自動車販売が合併させる一方でトヨタホームを創設した豊田章一郎社長が亡くなりました。97歳でした。
野僧は春日時代、トヨタ自動車宮田工場の開設記念式に出席した基地司令に随行して章一郎社長に会ったことがあります。その時、章一郎社長は「今の愛知県の若者は型にはまった発想しかできず革新性がない。その点、九州人の爆発力には大いに期待している」と挨拶されたため立食になって回ってこられた時に「私は岡崎出身です」と声をかけると「地元に引き篭らないようなら貴方は愛知県人でも別種だ」と答えられました。
章一郎社長は大正14(1925)年に喜一郎社長の長男として名古屋市東区白壁で生まれました。生家の近所には4歳年上のソニーの創業者・盛田昭夫社長が住んでいました。小学生になって間もなく喜一郎社長の赴任に同行して東京の小学校に転校すると叔父の昭夫さんの英才教育を受けるようになり、それは社長になってからも続きました。徴兵検査は理科系学生の兵役延期になり、昭和19(1944)年に名古屋帝国大学工学部に進学して自動車工学を学び、敗戦後の昭和23(1948)年に卒業しました。
卒業後は戦時下での学業に不安があったため東北帝国大学の大学院に進学して後に博士号を受けるほど研究に励み、食料不足から親戚が稚内で始めた蒲鉾工場での仕事なども経験して昭和25(1950)年に名古屋に戻って喜一郎さんの豊田自動車に入りました。そこでの最初の仕事は東京工業大学の教授の特許を用いている営繕課の住宅建設事業を独立させてユタカプレコンを創業し、これが後にトヨタホームに発展しました。
ところが昭和27(1952)年に喜一郎社長が57歳で急逝すると豊田自動織機から抜擢された石田退三新社長と次の社長になる昭夫叔父から一族経営の復活を目指す英才教育を受けることになりました。しかし、東京のマスコミは一族経営や世襲制を完全否定していますから人物紹介では愛知県の旧態依然の企業風土扱いでした。
その後は自動車を製造する豊田自動車工業と販売する豊田自動車販売が合併した巨大企業体・トヨタ自動車とグループ企業の経営者として日本で製造した全ての部品をアメリカで組み立てさせるノックダウン方式によって品質を維持しながら貿易不均衡を解消するなどの卓越した業績を重ね、バブル崩壊直後の1994年から1998年まで経済団体連合会の会長に就任するとトヨタが愛知県の企業であることを再確認させました。
バブル崩壊後、東京のマスコミは「アメリカ式の非情な合理化以外に好景気の再現はない」と断定的に報道して、それを鵜呑みにした多くの企業が敗戦後の高度経済成長の基盤だった企業内の人材育成や大企業が必要な部品や材料を供給する多くの中小工場を守る日本的企業風土を放棄して日本国内に社員と工場のリストラの凶風が吹き荒れましたが、トヨタ自動車は他の大手企業が安価な中国製の輸入部品に乗り換える中、傘下の中小工場に単価を引き下げさせて調達を継続し、社員も配置替えで雇用を維持したのです。心より敬意を込めて冥福を祈ります。とても小柄でしたから棺は小さいでしょう。
- 2023/02/17(金) 15:26:08|
- 追悼・告別・永訣文
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