野僧は警備小隊長時代に昭和45(1970)年8月19日に発生したハイジャック事件で全日空アカシア号を浜松基地に強制着陸させた時の資料を見る機会があって以来、対ハイジャック戦史の研究に励みましたが、これは1976年8月23日の制圧成功に慢心したエジプト軍の失敗例です。しかも敗因は政治的理由です。
事件は1978年の2月18日にキプロスの首都・ニコシアで開催中のアジア・アフリカ人民連帯機構代表者会議の会場がヨルダン人とクエート人のアラブ過激派2人に襲撃され、エジプト代表でアンワル・アッ=サダート大統領の盟友だった新聞社の社主を射殺して他の出席者を拉致したことから始まりました。キプロスは地中海のトルコの南に位置する島なのでエジプトからは対岸です。
犯行目的はイスラエルへの接近を深めるアッ=サダート政権に対する懲罰で、犯人たちは17人の人質を連れてニコシア国際空港に移動してキプロス政府と出国=逃亡の交渉を始め、旅客機の提供に同意したためキプロス政府の閣僚を含む6人の人質を解放しました。そうして犯人2人は提供された旅客機DC-8に人質11人と一緒に乗り込んで離陸させましたが行き先は決まっておらず、リビアやギリシャ、南イエメンには着陸を拒否され、燃料切れでジブチ国際空港に着陸したものの給油中の交渉でもリビアとアルジェリアに拒否され、やむなくニコシア国際空港に引き返すことになり、19日の午後5時50分に着陸しましたが、空港は装甲車が配置されるなど厳戒態勢が敷かれていて犯人は言うまでもなく人質も機外に出ることは許されませんでした。
一方、代表を殺されたエジプト政府は国内の裁判を受けさせることを強行に要求していてDCー8がニコシア国際空港向かうのに合わせて特殊部隊の兵員58人とジープ1両を載せたC-130輸送機が発進し、着陸して40分後に強行着陸したのです。この軍事行動をエジプト政府は「キプロス政府も承認している」と説明しましたが、キプロス政府は「アッ=サダート大統領に直接介入を拒否すると電話で通告した」と反論しています。
その後、ニコシア国際空港では大統領自らが犯人と交渉し、東ヨーロッパへの亡命を認める合意が為されたのを無線で傍受していたエジプト軍は逃亡を阻止するべく作戦の実行を決定しました。
午後7時30分頃にC-130の後部扉を開いてジープを引き出すと兵員が乗り込んでDC-8に向かい、タラップを駆け上がってドアに発砲すると周囲で警護していたキプロス軍と銃撃戦になって約50分間続き、多くが死傷する中、数人が機内に突入しましたが予想外の激しい銃声に驚いた犯人は素直に降伏し、エジプト軍が投降したことでキプロスの警察に逮捕されました。大統領がいた管制塔にも数発が命中しました。
さらにC-130も攻撃目標になってミサイル弾で破壊されて、エジプト軍はC-130の搭乗員3人を含む15人が戦死し、両軍合わせて20人が負傷しました。
キプロス政府はエジプト政府の引き渡し要求を拒否して犯人を裁判にかけて死刑判決を下したものの無期懲役に減刑しています。
- 2023/02/18(土) 13:25:09|
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