敗戦から半年経過した昭和21(1946)年の2月19日から昭和の陛下の「失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので日本全国を回りたい」との大御心による全国巡幸が始まりました。
しかし、行幸を受ける地域が「礼を失することはでいない」と辞退し、占領軍が「警護の責任が果たせない」と反対したため当初は日帰りになり、2月19日が川崎市と横浜市、20日は横須賀市でした。その後も2月28日と3月1日は東京都下(八王子市など)に2往復、3月25日は群馬県、3月28日は埼玉県(熊谷市など)、6月6日と7日が千葉県に2往復、6月17日と18日の静岡県に2往復と関東一円と近県から出られることができず早朝発・夜間着の往復と言う過密日程による陛下への負担が大きくなりました。
すると「敗北した君主は亡命しなければ暗殺される」と危惧していた占領軍は訪問先の日本国民が熱烈に歓迎しながら礼節を失わないことに感心する一方で「生身の天皇を見せることが昭和21(1946)年1月1日の神格化を否定する勅書=(いわゆる)人間宣言を周知・徹底するのに有効である」と考えを改め積極的に推進するようになりました。
これを受けて巡幸は宿泊を伴う遠距離になり10月21日から23日の愛知県(豊橋市・岡崎市・矢作町、安城市、名古屋市、稲沢市、一宮市)、24日から26日の岐阜県を皮切りにして11月18日と19日の1泊2日の茨城県を挟んで昭和22(1947)年には6月4から15日は京都府・大阪府・和歌山県・兵庫県の関西圏、8月5日から19日は福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県・山形県の東北一周、9月4日から6日の2泊3日の栃木県を挟んで10月7日から15日が長野県・新潟県・山梨県の甲信越、中1週間で10月23日から11月1日が福井県・石川県・富山県の北陸圏と陛下は41歳だったとは言えかなりの強行日程になりましたが、これも巡幸を待望する国民の声が全国で湧き起こったからでした。この福井県では初日の敦賀で宿泊された旅館で鰻を美味しそうに召し上がった様子が新聞で紹介されたためそれからは毎晩の鰻責めになりましたがお若かっただけに元気の素=スタミナ源になったようです。
さらに11月27日から12月11日に鳥取県・島根県・山口県・広島県・岡山県の中国地方一周、そして昭和23(1948)年は休止して昭和24(1949)年の5月18日から6月10日に福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・鹿児島県・宮崎県・大分県の九州一周、昭和25(1950)年の3月13日から29日に香川県・愛媛県・高知県・徳島県の四国一周、そして昭和26(1951)年は11月15日と16日が滋賀県、京都泊で18日と19日が奈良県、20日から24日が三重県と回り残しを埋め、昭和27(1952)年と昭和28(1953)年は休止して昭和29(1954)年の8月8日から23日に北海道を一周されてアメリカの占領下だった沖縄県を除く全国巡幸を完結されたのです。しかし、昭和の陛下にとって皇太子時代のヨーロッパ訪問で立ち寄って以来、苛烈・壮絶な戦火を受けた沖縄の実情を見ていないことは終生の心残りになり、崩御されるまで行幸の希望を口にしておられたそうです。
- 2023/02/19(日) 13:18:38|
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