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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月21日・逆説的に時代錯誤な哲学者・スピノザの命日

ヨーロッパではカソリックによる精神支配の時代だった中世が終わろうとしていた1677年の2月21日にカソリック的宗教哲学を真っ向から否定したオランダの哲学者・バールーフ・デ・スピノザさんが亡くなりました。44歳でした。
スピノザさんは1932年にアムステルダムでポルトガルのユダヤ教への信仰を反カソリックとする迫害から逃れてきた裕福な貿易商のユダヤ人家庭に生まれました。
幼いから頭脳明晰でユダヤ教の聖職者・ラビになるための英才教育を受けましたが、兄が早世したため家業を手伝うことになり高等教育は受けないまま成人しました。しかし、万事に欲得勘定で動く商人として獲得する金銭的な利益よりも人生のために全力を尽くす精神的な利益の方が大きいと達観して商人を止め哲学の道を歩み始めました。
当時の哲学は「信仰によってカミ=創造主の真理と一体化する」と説くスコラ哲学やカソリックによる精神支配の中の人間の本質論が主題でしたがスピノザさんはユダヤ教やカソリックの伝統的な宗教観には拘泥せずに「世界はどのように成り立っているのか」を徹底的に考察し、両者に共通する根本聖典の旧約聖書でカミ=創造主を独立した人格として天地を創造し、自分を信仰する特別な存在として人間を作って天地の恵みを与え、背いた時には厳しく罰しながらも従う時に慈しみを以て導くとする当時のヨーロッパ社会ではまだ絶対的真理とされていた解釈を敢然と否定したのです。そのため1656年にはアムステルダムのユダヤ人共同体から排斥されて過激な信者に殺害されそうになりました。
結局、オランダ国内各地を転々として1661年夏にアムステルダムの南西36キロのライデン近郊のレインスブルフに定住し、ここで後に著書「デカルトの哲学原理」となる考察を弟子たちに口述させています。さらに1663年夏には首都・スフラフェン・ハーグ近郊のフォーブルフに転居して「デカルトの哲学原理」を刊行しました。
ルネ・デカルトさんは1650年に亡くなったフランスの哲学者で、考える主体である自己=精神とその存在を定型化した「我思う、故に我あり」と言う命題が有名ですが、当時の人間社会の正義の基盤として倫理を形成していたスコラ哲学とは相容れないため批判の声が起きつつあったのです。
この著書は大きな反響を呼び、スピノザさんの哲学者としての地位を高めましたが保守的な人たちからは敵視されて政治的著書の発禁処分を受けて主著書とされる「エティカ・幾何学的秩序によって証明された」の出版を諦め、没して15年後に出版されることになりました。確かに「エティカ」では「カミが一切を人間のために創造し、またカミを崇敬させようと人間を創造したと考えること自体、偏見だ。この世界は信仰心が篤い人に対しても、不敬な人に対しても同じ生存の条件を形成しており、人間がカミを崇敬するように世界が成り立っているとは到底考えられない」と明言していて本人が出版に不安を感じたのも当然でした。実際、スフラフェン・ハーグ郊外のスフェへニンゲン=スケベニンゲンで亡くなると遺骨は破棄されて埋葬地不明になり、現在の墓所は記念碑になっています。それでも1970年代にはオランダで最高額の紙幣の肖像でした。
  1. 2023/02/21(火) 14:43:50|
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