1905年の明日2月24日にスイスとイタリアの国境のシンプロ峠の真下ではないもののその辺りに1979年1月25日に上越新幹線の群馬県と新潟県の県境にある大清水トンネルが貫通するまで74年間も世界最長だったシンプロン鉄道トンネルが貫通しました。
スイスはヨーロッパの中央に位置する山岳地内のため古代から各地に移動する経路であると同時に難所でした。神聖ローマ帝国の時代は「全ての道はローマに続く」と言っても北からはアルプス山脈を越えなければならず、中世に入って北のドイツ、南のイタリア、西のフランス、東のオーストリア・ハンガリーが覇権を争うようになると軍事的要衝としての重要性を増しました。それは20世紀の第2次世界大戦においてもドイツを都市爆撃する連合軍の爆撃機が「中立国として通過を認めない」と言うスイスの決定を無視して領空を侵犯したため撃墜と報復の誤爆を繰り返しました。そして近代に入るとスイスは独立国になり、住民が必要に応じて周辺国に出入りするようになりました。しかし、蒸気機関車の発明と発達によって輸送力・交通量が急激に拡大してもスイスと周辺国の間には山脈と言う障壁があり、深い谷を抜ける以外に鉄道を敷設することはできませんでした。
そこでスイス国内ではトンネルを建設して難路を解消することで周辺国と同様の輸送力を獲得しようと言う気運が盛り上がり、西部のフランス系、北部と東部のドイツ系(東部はオーストリア系)、南部のイタリア系の住民がそれぞれの母国に協力を求めて建設計画の具体化を争うになったのです。
そんな中、1878年にイタリアとの国境のシンプロン峠のトンネル建設と完成後の鉄道路線の経営を目的とするシンプロン鉄道会社が設立されましたが、これは可能な限り鉄道で登り、スイス領内の登ることが困難な区間だけトンネルを掘ると言う消極的なものだったので出資者はそれほど集りませんでした。すると1889年7月に開かれたイタリア国王とスイス大統領の会談で全長20キロのトンネルを貫通させる壮大な計画が合意され、シンプロン鉄道会社(社名は変更していた)はスイス国営鉄道に吸収されて国家事業として1898年から建設工事が開始されました。
工事はドイツのハンブルクの建設会社・ブラント・ウント・ブランダウが請け負い、1日平均で3000人のイタリア人を中心とする労働者を動員してスイス側の標高685.80メートルの北口は11月22日からイタリア側の633.48メートルの南口は12月21日から掘削が始まりました。第1トンネルは全長19803メートル、複線化のため20年後に建設された第2トンネルは19823メートルをほぼ直線で掘り抜いているため当初は作業用通路兼通気用の支坑を本坑から17メートルの両側に掘り、200メートル間隔で本坑と結ぶ横坑を設ける最新の工法が用いられました。しかし、67人が事故死してそれ以上の病死者が出る苛酷な工事をイタリア人が我慢するはずがなく、スイス軍が対処するほどの大規模なストライキが頻発して5年半の予定が7年半に延びてようやく貫通し、1906年5月19日に開通、同年6月1日に電化されました。ちなみに計画決定時の申し合わせで両方の出入口には国境封鎖用の爆薬が設置してあります。
- 2023/02/23(木) 14:31:15|
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