対米戦が終結する半年前の昭和20(1945)年の2月24日に鎖国中だったチベットに2度密入国して佛教の源流を学び、貴重な佛典を持ち返った河口慧海法師が防空壕の階段で転倒して頭を打ったことによる脳溢血で遷化しました。78歳でした。
河口法師は慶応2(1866)年に現在の大阪府堺市で桶樽職人の息子として生まれました。6歳から寺小屋へ通い、学校制度が始まると小学校に移って義務教育が修了すると12歳から家業を手伝い、14歳からは夜学に通うようになりました。さらに旧領主の儒学師範の塾で漢籍を学び、外国人宣教師に英語を習うようになりました。普通、日本の偉人伝では「学問する暇があれば家の仕事を覚えろ」と親に向学心を否定される苦学の逸話がつきものですが河口法師は逆に明治19(1886)年から京都の同志社英学校に入学しています。ただし学費が支払えずに帰郷して外国人宣教師の個人教授を再開しましたから決して生家が裕福だった訳ではないようです。
それでも旺盛な向学心を有していたのは間違いないようで明治21(1888)年に地元の尋常小学校の教員になると翌年には上京して井上円了さんが創設した哲学館(東洋大学の前身)の定員外の学生になり、明治23(1891)年には当時は本所にあった黄檗宗の五百羅漢寺(現在は浄土宗系単立寺院として目黒区にある)で得度を受けて住み込みました。そして明治25(1983)年に教育課程を修了すると大阪の禅宗寺院に移り、坐禅を修しながら経典に読み耽りましたが、やがて漢籍の佛典に対する不信感を抱くようになって梵語やチベット語の原典を学ぶべく鎖国しているチベットへの渡航・密入国を決意したのです。そこでセイロン(=スリランカ)で南方佛教を学んで帰国した僧侶について原始佛教語のパーリ語を習得すると明治30(1897)年に神戸港をたち、シンガポール経由でカルカッタに到着して約1年間、ダージリンの学校でチベット語を学び、潜入の方法を研究しました。そして明治32(1899)年1月にダージリンを出発するとネパールの首都・カトマンズに入り、そこからチベットを目指しました。しかし、チベットの鎖国は厳格で国境の手前に滞在しながらチベット語とチベット佛教を学び、抜け道を探す日々が続き、翌々年の2月にようやくチベットの首都・ラサに到着したのです。
ラサでは大きな僧院に入って学僧になりましたが、別の学僧の脱臼を手当てしたことで医術の心得が評判になり、ダライ・ラマ13世の侍医に招聘されたため身元が発覚することを危惧して明治35(1902)年に国外脱出しました。この時、友人の薬屋の協力で大量の佛典を馬で持ち出すことに成功しています。
こうして明治36(1903)年に6年ぶりに神戸港に帰り着きましたが大正2(1913)年から大正3(1914)年にも2度目の密入国を決行しています。
帰国後の河口法師はチベットの佛典の解読に力を注ぎましたが大正15(1926)年には「中国の佛教の教義と説話は中国人による変質と捏造に過ぎない。したがって中国経由の日本の伝統宗派は佛教とは異質の教義を説いている」と批判した「在家佛教(『の勧め』を付けるべきでは)」を出版しています。これは野僧の高校時代からの愛読書です。
- 2023/02/24(金) 13:40:57|
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