1941年の2月25日にスティーブン・スピルバーグ監督が「未知との遭遇」に続く第2作「1941(1979年公開)」として映画化した「バトル・オブ・ロサンゼルス=ロサンゼルスの戦い」が発生しました。
日本では反米感情を煽るために1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領がサインした大統領令9066号による日系移民の強制収容を人種差別による非人道的行為と決めつけていますが、当時のアメリカでは1941年12月7日(現地日時)の真珠湾攻撃によって太平洋艦隊が壊滅した一方で日本海軍の艦艇は無傷であることから陸軍の大部隊が太平洋を横断してきても阻止する手段がなく、西海岸が占領される事態を現実的な危機として深刻に受け止めていたのです。
また日本海軍は末次信正大将が立案した対米戦略に基づいてパナマ運河を破壊するべく複数の大型潜水艦を派遣しましたが艦載砲では不可能と判明したため太平洋岸を北上して同じく通商破壊として航行中のタンカーや貨物船を10隻以上撃沈していて1942年2月23日には伊17潜水艦がカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド油田を砲撃して爆発・炎上させていました。これは1812年から1815年にイギリスと植民地のカナダ、ネイティブ・アメリカンの連合軍の攻撃を受けて以来のアメリカ本土への攻撃と被害で日本軍に対する危機意識がさらに増大しました。
そんな中、エルウッド油田への攻撃を受けてカリフォルニア州は厳戒態勢にあり、2月24日の午後7時18分に空襲警報が発令されて午後10時23分に解除されるなど緊張感が充満していました。そして4時間後の2月25日の午前2時過ぎにレーダーがロサンゼルス市西方120マイル=193.121キロの空域を飛行する航跡1点を捉えて午前2時15分に再び空襲警報が発令されたのです。これを受けて陸軍航空隊はただちに迎撃機の発進準備を始め、午前2時21分にはロサンゼルス市に灯火管制が敷かれました。
その後、航跡は消失しましたが情報局には「敵機来襲」の通報が入り、午前2時43分にロサンゼルス市南部のロングビーチ付近で飛行機の目撃情報が届き、数分後には「上空12000フィート=3657.6メートルを25機の編隊が飛来した」と具体的になったのです。さらに午前3時6分にロサンゼルス市の西隣のサンタモニカ市上空で赤い光を放つ気球1基が目撃される(戦後になってUFO説が唱えられた)と陸軍が高射砲の発砲を開始し、目標を探すサーチライトが新月2日前の暗夜を交錯する中、午前4時14分までに1433発が発射されました。
結局、灯火管制は日の出7分前の午前7時21分まで続きましたが無灯火運転による交通事故が多発して3名が死亡、2名がショック死(=心臓麻痺)した他、高射砲弾の着弾による住宅や自動車への被害が続発する被害が出ました。また日系移民20名前後が「航空機に信号を送った」として保安官に身柄を拘束されています。
翌日、海軍が「近海に日本海軍の艦艇は存在せず不安による誤報」と否定したため、陸軍は「日本軍に雇われた偵察目的の民間機の飛来」として大統領に報告しました。
- 2023/02/25(土) 13:19:13|
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