天文18(1549)年の明日3月6日は東照神君・徳川家康公が「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」と喝破するような苦難な人生になった原因と言われている父君・松平広忠さまの命日です。享年は一般的に24歳、長命でも27歳と言われています。
広忠さまは大永6(1526)年に15歳だった松平清康公の嫡男として岡崎城で生まれましたが、すでに異母兄がいました。その後、清康公は三河全土を領するようになりますが広忠さまが10歳の天文4(1535)年に美濃の国人の要請を受けて出兵する途中の尾張の守山で暴れ馬に乱心した家臣によって殺害される森山崩れが起こると叔父で桜井松平家の信定(敬称不要)が所領と家督、岡崎城の乗っ取りを図って広忠さまの殺害を企てたため岡崎城から逃れて渡(わたり=地名)の河原から舟で矢作川を下って河口一帯を治める吉良氏を頼ったのです。すると吉良氏は手厚く迎え入れ、一族を付き添わせて伊勢は桑名の神戸(かんべ)へ逃して匿わせました。そうして神戸で吉良氏を烏帽子親として元服しましたが、吉良氏が織田側に寝返ったことを察知すると桑名を脱出して今川氏を頼って駿河に向かいました。要するに人質志願の保護要求でした。
そうして天文9(1840)年に三河国の牟呂城(東西三河の豊橋市と西尾市に城跡が存在し、どちらも家康公の父・松平宏忠さまとの縁を解説している)に移され、信正が死んで混乱した桜井松平家を攻撃して岡崎城と松平家の本城である安城城を奪還してようやく父君・清康公の跡を継ぐことができました。
しかし、清康公の代には三河から東の遠江、西の尾張、北の信濃に勢力を拡張していた松平氏も立ち場が逆転して全方向から圧迫を受けていて、中でも尾張の織田氏は木曽三川を隔てる美濃と違って三河には川や山などの地形的遮蔽物がないため頻繁に攻撃してきて、国境の領主たちも松平氏を見限って織田氏に寝返る者が続出し、正室=家康公の生母の実家・刈谷の水野氏も織田氏についたため離別することになったのです。
そんな綱渡りのような領主家業の中、織田氏が本格的に侵攻してきたため今川氏に援軍を要請すると「嫡子=後の家康公を手元で養育したい」と事実上の人質を条件にされて、已む無く応じると渥美半島・田原の戸田氏の裏切りに遭って尾張に送られてしまいました。
嫡子は織田信長公の異母兄を人質にしたことで交換・奪還することができましたが、20歳代前半でこのような生命を擦り減らすような生活が続けばやがて人生に破綻が生ずるのは当然でこの日になってしまったのです。
死因については地元では病死(生来病弱だった、酒に溺れたとする説もある)とされていますが、村正の妖刀伝説の由来に「東照神君・家康公の祖父と父と嫡男・信康さま(自刃の介錯に用いた)の命を奪い、自身も関ヶ原の後、槍を見分して指を切った」とあることで全国的には暗殺説が信じられているようです。
歴史上の広忠さまは極めて影が薄く(下手すれば暗君扱いされている)、以前の家康公が主人公の時代ドラマでは帰郷して墓参するだけでしたが、最近の大河ドラマでは役者が演じるようになったにも関わらず殺害されてしまうため立腹することがあります。
- 2023/03/05(日) 14:38:22|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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