「いよいよです」「・・・」長いエレベータで地下の監視衛星の管制室に下りてきた石田首相に立野官房長官は大型コンピューターの画像を示しながら声をかけた。すると石田首相は身を乗り出して陰鬱な顔を画面に近づけた。
「この桟橋に並んでいるのが揚陸艦で・・・」「これはロプーチャ級ですね。タピール級もいます」本業は航空自衛官のコンピューター技術者が説明しようとすると石田首相に随行してきた防衛問題担当の専門官が遮るように解説した。
「建造中のイワン・グレン級は使用しないようです。間に合わなかったんでしょう」専門官の補足説明に石田首相は安堵したようにうなずいた。しかし、ロシア軍が日本への侵攻の準備を始めていることに変わりはなく、それを見ていた立野官房長官は首を傾げてしまった。
「これは先遣隊ですね。おそらく歩兵部隊に橋頭堡を確保させるのと同時に機甲部隊を上陸させて縦深突破戦術で我が方の防衛拠点を制圧するのでしょう」「そうなるとホバークラフトは使用しないのか」「ポモルニク型を積むと占領に必要な歩兵は乗せられない。おそらく主力は新潟港に接岸して空港を占領、別動隊は柏崎港に接岸して機甲部隊で刈羽原発を占領するのではないでしょうか」専門官は立野官房長官の質問にも個人的見解を答えた。この雄弁な専門家の現実的な戦術予測を石田首相が聞いているのであれば防衛出動の発令に腰が引けるどころか砕けてへたり込んでいるような態度が理解できなくなる。
「その後はこの揚陸艦が日本海を往復して本隊を運んで陣容が整えば侵攻を開始する」「旧式の方は何に使うんだ」「陸上自衛隊の戦力を分散させるためにどこかを奇襲するんじゃあないですか。奇襲は時期と場所が判らないから効果を発揮するんですよ」石田首相は立野官房長官と専門官の問答を黙って聞いているだけだ。やはり積極的に意見を訊いていないようで専門官の口調には鬱憤が溜まっている気配が濃厚だ。
「遅くなりました」「うん、これを見てくれ」そこに双木外務大臣が到着した。霞が関の外務省から永田町の首相官邸までの移動距離は1.1キロなので石田首相が執務室から歩いてくるのと大差はない。石田首相は画面の前を開けると少し離れて控えているコンピューター技術者を一瞥して専門官を招き寄せた。この短時間で優劣・適否を判断したらしい。
「なるほど・・・これで外交交渉や国連による仲介はコンプリート(完了)ですね。私は停戦の手順を考えましょう」双木外務大臣は各揚陸艦が艦尾を接岸している桟橋に並んでいる四角い戦車の数を呟くように数えながら自分の担当業務が次の段階に移ったことを申告した。
日露戦争の明治政府は帝政ロシアの意図を読み違えて開戦を決意するとアメリカを仲介者に選び、セオドア・ルーズベルト大統領とハーバード大学で学友だった金子堅太郎を派遣して説得に当たらせた。一方、対米英戦争では支那事変だけで人員や資源を統制する国家総動員法を制定するほど国力を消耗していながら「ナチス・ドイツがヨーロッパで勝てば日本もアジアで」と言う妄想的観測にすがって停戦は考えておらず、劣勢に陥ってようやくナチス・ドイツと戦っているソビエト連邦に仲介を期待する馬鹿さ加減を晒け出した。その点、双木外務大臣には山口県人でも満洲軍総参謀長として戦争を指導しながら常に引き際=落とし所を考え続けていた児玉源太郎大将の見識が備わっているようだ。同じ山口県人でも前年にイギリスと開戦していたナチス・ドイツやファシズム・イタリアと3国同盟を結んで日本を敵対関係に引き込んだ松岡洋右外務大臣とは次元が違う。
「遅くなりました。丁度、総理と官房長官、外務大臣に渡したい情報が入りまして・・・」10分遅れで釜田防衛大臣が到着した。市ヶ谷の防衛省から首相官邸までは5キロ弱あるがそれ以上に時間を要している。その言い訳なのか釜田防衛大臣は大型コンピューターのキーボードの横の台で金属製のアタッシュ・ケースを開くと3人に上下左右の片側の隅に「極秘」の赤いゴム印を押したB4判の茶封筒を配った。
「これは空自のグローバル・ホークが撮影した樺太と国後のロシア軍基地の写真です」「三沢から飛ばしたんですか」「国後はそのようだ。樺太は千歳からと聞いている」茶封筒を渡されなかった専門官は石田首相の脇から覗き込んで質問した。どうやら秘密文書を渡されなかった者は情報に関与できないと言う常識を知らないようだ。答えた釜田防衛大臣も同様だ。
「樺太では通常の大型旅客フェリーに戦車や軍用車両を積んでいます。一方、国後では輸送ヘリが集結している。これは・・・」「新潟と同時に北海道にも侵攻してくるんだな」ここで立野官房長官と双木外務大臣が声を揃えたが石田首相は反応せず、代わりに専門官が唱和した。さらに数十分後、嘉手納基地から発進したUー2偵察機が撮影した中国海軍の作戦準備の情報が在日アメリカ軍司令部から届き、窮地は隙間がなくなるまで押しつけられた。
- 2023/03/07(火) 14:29:05|
- 夜の連続小説9
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