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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ422

「三国山脈ですか、久しぶりですね」戦地に赴く覚悟で出発した関山演習場での長期演習からは無事に帰宅した安川1尉に新潟と群馬の県境の三国山脈を越える高圧電線の鉄塔に設置した指向式地雷・クレイムアの点検・補修が命ぜられた。それも今回は山岳レンジャー・クレージーサーティーンの40名で編制した1個小隊を指揮することになった。安川1尉は中隊長になってからはこの作業を若手の2尉に譲っているので作業指揮官が単なる名目なのは明らかだ。つまり上級司令部は新潟に上陸したロシア軍が関東に向かう経路として上越新幹線に並走する国道17号線を使う可能性を考えたようだ。
「穂高、お母さんと梓を頼んだぞ」「はい、敬礼」出陣の朝、玄関で半長靴を履き終えた安川1尉は立ち上がると11歳の小学5年生になった穂高の頭を撫でて被っていた戦闘帽を乗せた。すると新隊員課程で基本教練を習ったような動作で姿勢を正して挙手の敬礼をした。
「梓も好い子で待っているんだぞ」「うん、行ってらっしゃい」次はここまで抱いてきた2歳の梓の頬に手を当てた。聡美の身体は昨夜十分に堪能したが、娘は頬の温もりを心に受け留めた。後は聡美を抱き締めて口づけするだけだ。
「今度は高所作業だ。安全第一だな」「本当に気をつけて下さい」口づけを終えて声をかけると聡美は無理に目に力を入れて見詰めてきた。力を緩めれば涙が零れてしまうのだろう。演習を終えて帰宅した時、聡美は玄関で胸に縋りついて激しく泣いた。自衛官の妻として覚悟はしていても不安を打ち消すことができるはずはない。家に届く朝刊は1面の見出しに「戦争」「侵攻」「攻撃」の2文字がないことを確認してから開いていた。テレビのニュースもアナウンサーの説明を聞いてから画面を見ていた。そんな不安が安堵に変わり、再び不安に戻る。これが自衛官の妻の責務なのだ。安川1尉も松本に赴任して間もない頃、観光として参詣した善光寺の門前町の佛具店で記念品に買った小さな観音像に聡美が湯呑を香炉にしたことを知っている。今回は量販店で買ったらしい灯明の燭台も備わって子供のオヤツの菓子まで供物になっていた。花瓶の生花は玄関の下駄箱の上から移動してきている。
「それじゃあ行って来る」安川1尉は穂高の頭から戦闘帽を取ると踵を鳴らして姿勢を正し、挙手の敬礼と回れ右の手本を見せてドアを開けた。実は穂高に帽子を被らせたのはキスをするのに邪魔になるのも理由だった。その点、制服のベレー帽なら問題はない。聡美には安川1尉が「来る」に力を入れたように聞こえた。
「お父さん、行ってらっしゃい」穂高はランドセルを背負って安川1尉と階段を下り、残った梓が駆け寄った窓を聡美が開けると自転車置き場で荷台に演習用バッグを括りつけた安川1尉が出発するのに声をかけた。すると安川1尉は「おう」と気軽に返事をして片手を振りながら走っていった。途中で穂高を追い抜いたのが見えた。
「ののさまにお参りするんでしょう」「うん、観音さまにお父さんを守って下さいってお願いするのよ」安川1尉の後ろ姿が見えなくなると梓は母親の習慣を見抜いた。観音像は箪笥の上に祀っているので梓には見えないが時折、抱いてもらって手を合わせている。この話を安川の母に電話ですると「近所の寺でもらった」と言う般若心経が印刷された紙が届いた。隅に住所と氏名、生年月日に願目(祈願の目的)を記入する欄があるので簡易な「写経用」らしい。
「まかはんにゃはらみったしんぎょう」「まかはんにゃはらみったしんぎょう」もらってきた寺は曹洞宗らしく振り仮名はそのまま読むように伸ばす箇所や跳ばす音を示す小さな仮名もそのまま記してある。習ったことがない聡美には便利だが、本当は漢字の読みを正確に記して僧侶や先達の読経を聞いて節回しを覚えるのが正しい勤経の形だ。
「聡美、和也はまだ家に居るの」「今日は仕事に行ったけど」「まだ松本に居るのね」梓に教育テレビの幼児向け番組を見させて聡美が家事を始めると白井の母から電話が入った。白井の母は若狭湾の原発銀座が破壊されて放射能による環境破壊が問題になった時、市民運動の指導者として名を上げてからは市議会議員や県議会議員への出馬を熱望して教師時代の労働組合の支持政党に加盟してしまった。実は父も定年退職後、市議会議員への出馬を模索していたのだが現職の教師だった母や弟に「公務員は選挙運動に関われない」と協力を拒否されて断念した。その点、自分は市民団体を背景にしているので問題ないようだ。
「松本駐屯地に居るわよ」「そう・・・いつ戦争に征くのかしら」この口調で母が電話をしてきた目的は判った。安川1尉の所在を確認して陸上自衛隊の部隊の動きを探ろうと言うのだ。
「やっぱり自衛隊が出征する時も日の丸行列を作って市内を練り歩くんでしょう。貴女は参加しちゃあ駄目よ」母が言う戦時中の出征の場面はドラマや映画で見たことがあるが時代錯誤も甚だしい。安川1尉は「おう」と気軽に片手を振りながら出征していった。
  1. 2023/03/09(木) 14:47:23|
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