明治40(1907)年の明日3月12日は司馬遼太郎先生が幕末を舞台に幕府側の逸材・異才たちを描いた傑作小説「胡蝶の夢」の主人公・松本良順さんの命日です。
小説「胡蝶の夢」では佐倉藩医の息子が奥医師の娘婿として養子に入る場面から始まるので佐渡島から出てきた語学の天才の問題児・島倉伊之助=司馬凌海さんや松本さんの実父の門下生・関寛斉さんなどが絡んでいてもやはり主役は松本さんです。
松本さんは天保3(1932)年に当時は江戸で蘭学塾を開いていた蘭方医の佐藤泰然さんの次男として江戸で生まれました。天保14(1843)年に佐藤さんが老中・堀田正睦さんの招きで佐倉藩医になり城下に移住しても江戸で蘭学と医術の修業を続けましたが、嘉永元(1848)年に佐倉城下に赴き佐藤さんが開設していた病院兼私塾の順天堂を手伝うようになりました。ところが嘉永2(1849)年には奥医師の松本良甫さんの娘婿の養子になって江戸へ戻っています。ところが江戸城内では蘭方医としてよりも蘭学者として評価されていたようで安政4(1857)年には長崎に開設された海軍伝習所御用=管理要員を命ぜられると出島商館のポンペ軍医に西洋医術と科学技術を伝授させる医学所を併設して自分も学びました。
文久2(1862)年に江戸へ戻ると奥詰医師と幕府が蘭方医学の普及のために開設した医学所の頭取助になり、文久3(1863)年には奥医師と頭取に昇進しました。頭取としては江戸の蘭方医の頂点に君臨して権勢を奮っていた伊藤玄朴さんが大坂から緒方洪庵さんを招聘しながら江戸の蘭学の優位性を誇示するために嫌がらせを続けていた事実を弾劾して失脚させる一方で医学所の教育方法を緒方さんの適塾式(学生の自学自習と自由討議)からポンペ式(講義と指導下の実習)に変更しています。
ところが日本国内は風雲急を告げ、14代将軍・徳川家茂公が上洛するのに同行し、京都守護職・会津藩のお抱えとして治安の維持に当たっていた新撰組とも交流を持ち、第2次毛利征討で大坂城に入った家茂公が不審な急病で倒れると懸命に治療に当たりましたが力及ばず、そこから続く戊辰戦争では幕府軍の軍医、江戸開城後は会津城防御戦に参加しましたが奥羽越列藩同盟軍の軍医として仙台で降伏しました。
降伏後は投獄されたものの明治2(1869)年に釈放されて東京の早稲田に西洋式病院を開設すると山県有朋の招聘を受けて明治4(1871)年に兵部省に出仕しましたが、松本さんは武士ではないので二君に仕えた変節には当たりません。
明治6(1873)年に初代軍医総監になって陸軍の医療・衛生・食事・生活様式の近代化(徴兵で経験した兵士が持ち帰ることで日本全体に広まった)に尽力する一方で牛乳の飲用と海水浴や温泉の健康への効果を提唱し、神奈川県大磯海岸や長野県湯田中温泉を世に広めています。
また京都時代に負傷者の治療に当たるなどの交流があり、土方歳三さんとは会津までは行動を共にした新撰組隊士の慰霊碑を生き残った2番隊長の永倉新八さんの要請を受けて近藤勇さんが斬首された現在の山手線板橋駅前に建立しています。
- 2023/03/11(土) 14:37:11|
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