昭和62(1987)年4月1日の国鉄分割民営化に先立つ明日3月15日に国鉄二俣線が第3セクターによって天竜浜名湖鉄道(通称・天浜線)になりました。
東海道線の掛川駅から当時の天竜市(現在の浜松市天竜区)を経由して浜名湖の北岸を通って新所原駅を結ぶ国鉄二俣線は大陸進出を進める陸軍が山陽本線と接続されて東西の人や貨物の移動の大部分を担っていた東海道線が浜名湖の今切口の鉄橋を破壊されれば物流が停止して兵站が窮乏する事態を危惧して国鉄に対策を要求し、昭和15(1940)年に開通させた迂回路線でした。また野僧が高校から大学の時期には東海道線に乗り入れる豊橋駅発着の便もあり、通学時には「間もなく二俣線が発車します。停車する駅は二川、新所原、大森(ここから二俣線)・・・」と言う構内アナウンスが流れていました。そのため新所原駅には東海道線を跨ぐ架線路橋がありましたが現在は撤去されています。
現在の天竜浜名湖鉄道の路線距離は67.7キロで全線が単線、非電化ですが39駅を設置していて、天竜区の西鹿島駅では浜松市中心街に直結している遠州鉄道に乗り換え接続しています。その一方で遠江一宮駅と敷地駅の間の路線は袋井市を通過していながら市内に駅は存在しません。
国鉄分割民営化で第3セクター方式を採用した路線は民間鉄道会社に移行した後、新JRの経営の足枷・重荷になる赤字路線が大半で二俣線も最終の昭和61(1986)年の年間利用者数が9万9千人の空き列車状態でした。ところが民営後は地元自治体が「利用しなければ廃線になる」と言う危機意識を地域住民に周知徹底した上、駅を無人化(管理は駅前の商店街や自治会に委託した)、列車をワンマン方式1両にして合理化を進め、沿線に住宅地を分譲して固定利用者を増やし、フルーツ・パークや沿線企業の見学施設などを開業させて家族連れ客を誘致するなどの経営努力で利用者が激増して開業した昭和62(1987)年には20倍の198.3万人、昭和63(1988)年は213.5万人、1989年は220.7万人、1990年は234.3万人(最高数)、1991年は234.1万人と2000年までは200万人台を維持しましたが21世紀が始まった2001年は新型車両を導入したものの199.6万人と王台割れが生じ、それからは2002年は194.5万人、2003年は189.4万人、2004年が181.4万人と2年で10万人のペースで減少して2009年以降は150万人前後で推移しています。
天竜浜名湖鉄道の意外な魅力としては合理化を徹底していて昭和15(1940)年までの完成で築50年未満と比較的新しかった駅舎やホームを改築せずに修理に留めているため昭和の建築物が数多く残っていることです。野僧が浜松時代に住んでいた引佐郡細江町内(現在の浜松市北区細江町)だけでも西気賀駅の駅舎と気賀駅の駅舎とプラットホーム、気賀駅と岡地駅の間にある気賀町高架は国の有形文化財に指定されていて多くの駅舎がドラマや映画のロケなどに使用されているようです。線路の信号機も一般的な点灯式ではなく古い腕型の板が上下する方式が残っていて、まだ国鉄二俣線だった頃には蒲郡高校の鉄道研究会が撮影に出かけて写真を校内回覧冊子に掲載、文化祭で展示していました。
- 2023/03/14(火) 14:43:50|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0