参議院では当選以来、一度も登院していないガーシー議員=東谷義和議員が除名されましたが昭和43(1968)年の明日3月16日は敗戦後、日本国憲法によって設置された参議院において初めて除名処分を受けた小川友三(ともぞう)議員の命日です。63歳でした。
小川議員は大正10(1921)年に現在の埼玉県和須市で生まれ、母子家庭になったため14歳で東京に出ました。自己申告の経歴上は現在の明治薬科大学を卒業して東京の日暮里で薬局を開き、続いて淋病湿布と称する塗り薬を開発して製薬会社を始めました。多分、戦時中だったため薬物審査が機能していなかったのでしょう。
そうして金を手にすると政治家を目指すようになり、選挙があれば立候補するかつての羽柴某のような政治活動を始めましたが、詐欺罪で逮捕されて戦時下の昭和19(1944)年に帰郷しました。すると今度は単なる炭酸カルシウムを抗生物質と称して売り捌いて大金を得て、敗戦後の昭和22(1947)年に行われた統一地方選挙と新憲法の制定に伴う衆参両院選挙に出馬したのです(当時は重複立候補が許されていた)。
結果としては4月5日投票の加須市長選挙と埼玉県知事選挙は落選しましたが4月20日投票の参議院では親米博愛勤労党なる自作政党から立候補して全国区は上位50位が当選のところ78位でしたが「参議院は6年の任期で半数を3年ごとに改選する」との規定によって3年後に任期が満了になる50人を下位から加えたため当選してしまったのです。本人にとってこの当選は4月25日が投票日だった衆議院選挙に妻を立候補させてラジオの政見放送に勝手に割り込んで最初から最後まで「小川友三、小川友三・・・」と連呼し、立会演説中に友人に日本刀で斬りかかる暴漢を演じさせ、投票日直前には訃報を流すなどの話題作りに励んだ甲斐があったと言うものでした。
参議院では新聞に名前が掲載される質問主意書を連発し、首相指名選挙では必ずに自分に投票して「小川友三くん、1票」と結果を報告する議長の声をラジオで流して知名度を上げ、「議員バッチを紛失した」と言って大量に入手すると取り巻きに付けさせて小川友三議員を大量に発生させるなど滅茶苦茶な政治活動を展開していました。
ところが当時の参議院予算委員会は与野党同数でどちらにも所属しない小川議員が可否の決定権を握っていて、そんな昭和25(1950)年4月3日に1年生議員でありながら大蔵大臣に就任した池田隼人大臣を激しく批判する反対討論を行ったため野党が「否決される」と快哉を叫んだ直後の採決では一転、賛成したため可決されたのです。
この事態に激怒した社会党の議員がエレベータを待っていた小川議員を背負い投げで負傷させましたが参議院には除名決議が提出され、懲罰委員会では全会一致、4月7日の本会議では賛成108、反対10で可決されて史上初の除名処分になりました。除名から2カ月後の参議院選挙に出馬しましたが、当選する得票数には遠く及びませんでした。
その後、参議院では昭和26(1951)年3月29日の占領軍の朝鮮戦争への参戦と吉田内閣が進める西側諸国との講和を批判しながら共産革命を賞賛した共産党の川上貫一議員が2人目になりました。
- 2023/03/15(水) 13:55:04|
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