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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月17日・珍しい統治行政型天皇・桓武天皇が崩御した。

後白河、後鳥羽、後醍醐の3悪帝に限らず憂き世=現実を知らない日本の天皇が政治に介入すると策謀を巡らして有力者同士の抗争を発生させて国家を分裂の危機に陥れることが常ですが、その中で卓越した統治行政能力を発揮した桓武天皇が延暦25(806)年の明日3月17日に崩御しました。69歳でした。
桓武天皇の政治能力の基盤になったのは父親の代からの「由緒正しくない」生い立ちでした。父親の光任天皇は天智天皇の7男の6男=孫で壬申の乱で勝利した天武天皇系が皇位を争奪している中では継承の対象外でした。しかも桓武天皇の母親は皇位継承の対象外であることを自覚していた光仁天皇が宮中官僚としての立身出世を願って結婚した百済の尚寧王の末裔の女性でした。このため平成の天皇は日韓ワールドカップに関するコメントでこの史実を持ち出して「韓国にはゆかりを感じている」と述べ、日本では黙殺したものの韓国では「皇室は韓国人の血を引いている」「日王が秘められていた事実を暴露」と大反響を呼びましたが、平城遷都1300年の記念行事でも同様の挨拶をしています。
ところが光仁天皇は皇位の争奪戦で有力な皇子たちが次々に殺害されていくのを傍観しながら酒に溺れる馬鹿を演じて生き残り、安全牌として聖武天皇の皇女を妃に迎えていたため神護景雲4(770)年に女帝で後継者がいない称徳天皇の遺命によって62歳で即位することになりました。しかし、それでも桓武天皇は母親の出自が低いため長男でも立太子は期待しておらず、皇女の義母が生んだ異母弟が皇位を継承するものと思っていましたが、毎度の権力争いで義母と異母弟が排斥されて同日に死亡したため立太子したのです。そして宝亀12(781)年に譲位を受けて即位して天応に改元しました。
日本史の授業で桓武天皇は「鳴くよ鶯、平安京」の794年に魑魅魍魎が徘徊し、怨霊鬼神が跋扈する魔都・平安京に遷都したことしか習いませんが、これは称徳天皇と道鏡禅師の不適切な関係に見られる僧侶の過剰な政治介入を遮断することが目的とされています。しかし、当初の長岡京(現在の京都府の平地の西部)では天災や疫病の流行、東北遠征の2度の失敗、さらに近親者の急死や重病が相次いだため遷都から10年目に風水学に基づき平安京に再遷都したのです。また東北遠征の2度の失敗を受けて年限式徴兵(「健児」と呼んだ)や後に武家となる騎馬軍団の創設などの軍制改革を行い3度目の坂上田村麻呂将軍が制圧しました(東北人としては許し難い)。さらに奈良佛教に替わる教義として天台宗・真言宗=平安佛教の導入などの数多くの国家事業を進めましたが、これらは若い頃に皇位継承を諦めて宮中官僚になるための勉学に励んだ成果と言われています。確かに末裔の桓武平家は合戦以外に能がない清和源氏に比べてはるかに政治力があります。
その一方で即位の翌日に実弟を立太子させながら平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇になる皇子が生まれると廃太子・流罪にして、食を絶って憤死させたため現在も東大寺二月堂のお水取りで鎮魂を祈願している怨霊になってしまいました。672年の壬申の乱も天智天皇が弟の大海人皇子=天武天皇に譲ると約束した皇位継承を実子の大友皇子=弘文天皇に変更したことで生起しましたが教訓にすることはできなかったのでしょうか。
  1. 2023/03/16(木) 14:30:11|
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