明治9(1876)年の明日3月28日に武士の特権であり義務でもあった帯刀を禁止することから「廃刀令」と呼ばれることが多い太政官布告第38号「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件」が発布されました。
江戸時代の武士は東照神君・徳川家康公が定めた武家諸法度の第1条に「文武弓馬の道専ら相嗜むべき事」とあったため寛文3(1683)年に5代将軍・徳川綱吉公によって「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」と改められてからも戦闘員としての覚悟を常に体現するため動きやすいように袴を穿き、何よりも打刀(うちがたな)と屋内用の脇差の二振りを帯びていました。時代劇に登場する奉行所務めの同心が袴を穿かず、護身用の打刀を一振りしか帯びていないのは身分が武士ではなく足軽だからです。
明治の政変によって武家諸法度が効力を停止して、明治2(1669)年の版籍奉還=廃藩置県で主従関係もなくって武士の実態も消滅したのですが、新政府の首脳はお飾りの公家を除けば大半は薩長土肥の下級武士だったので建前上は近代国家として身分制度を廃止することは決めても自分が放棄する気分にはならず、明治2年太政官布告第576号で一切の特権は認めなかったものの戸籍には「士族」と言う出自を記録するように定めました。これを受けて家の表札の横には「士族」と言う札を表示したようです。この「士族」は主君から俸禄を受けていた正式な武士で足軽は含まれません(足軽頭については上役の武士が地方役人になっていると温情で「士族」と記入されることも多かった)。
このように払拭するはずの身分制度の名残が社会に蔓延していると版籍奉還で武士を捨てたはずの「士族」が帯刀して街を闊歩するようになり、些細な揉め事が斬り合いに発展し、無礼をはたらいた平民を斬り捨てる時代錯誤な事件が散発するようになって、これを見越した島津藩士出身の森有礼さんが明治2(1869)年に「早く蛮風を除くべし」と廃刀を建議していたのですが下級武士出身の政府首脳たちが「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させてはいけない」と反対して、それでも明治3(1870)年には一般人、特に任侠者や渡世人が武器として携帯することを禁止して、明治4(1871)年に髷を廃止する散髪に合わせて帯刀する義務・習慣を解除することを通達していました。
明治9(1876)年の太政官布告第38条は後に山口陸軍閥の長になる山県有朋さんが「従来、帯刀していたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」と建議したことで断行されたのです。しかし、山県さんは毛利藩の足軽よりも下の中間組出身なので「士族」ではなく「刀を持ちたければ陸軍に入れ」と言う勧誘の方便に思えてしまいます。
それでも禁止されたのは刀を腰に差す帯刀だったためそれを逆手に取って腰には差さずに肩に担ぎ、袋に入れて手に提げ、中には直刀(ちょくとう=反りがない刀)を棒に収めた仕込み杖にして歩く者などが続出しました。結局、本当の廃刀令は昭和33(1958)年の「銃砲刀剣類所持等取締法」でした(敗戦直後にも同趣旨の勅令は出ている)。
- 2023/03/26(日) 15:16:53|
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