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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月31日・日本政府が「人口が1億人を突破した」と発表した。

昭和40年度が終わる昭和41(1966)年の明日3月31日に法務省が「日本の人口が1億人を突破した」と公式発表したそうです。
昭和40年度は日本の人口や社会構造を国が正確に把握するため5年に一度の10回目の国勢調査が実施されていて、前回の昭和35年度からコンピューターが導入されたものの当時は文字情報をパンチカードと呼ばれる紙テープに点の穴を開ける作業を必要としたため過去の手作業で4年かかっていた集計が3年半に短縮しただけでしたが、昭和40年度はマークカードに鉛筆で転記(共通一次試験で有名になったマークシート方式)するだけですむようになって1年半で完了できたそうです。しかし、その結果としての日本の人口は9920万9137人で1億人には届いておらず、何よりも当時の国勢調査を担当していた統計局は総理府の外局(=戦前は内務省、現在は総務省)でしたから法務省の出番はありませんでした。おそらく法務省が担当する外国人の移住者が7963人を超えたため合計で1億人を突破したのでしょう。
日本の国勢調査は645年の大化の改新の後に租税を割り当てる「班田収授法」の基礎資料として人口調査を行ったのが始まりで奈良時代には450万人程度だったと言われています。その後、徳川8代将軍・吉宗公が享保6(1729)年から6年ごとに弘化3(1846)年まで続けましたが、第1回が2606万5425人で以降は飢饉などによる大幅減を除けば3000万人台で推移したようです。
ところが明治政府は徳川吉宗公の国勢調査よりも70年以上遅い1801年から開始したイギリスの国勢調査を模倣することを検討し、明治12(1879)年には山梨県限定で試験的に調査を実施しましたが、江戸時代に檀家制度で住民を把握していた寺院から引き継ぎをせずに役人が戸籍を作成していたため時期尚早と言う結論になりました。その後、明治28(1895)年に国際統計協会から参加の誘いがあって翌年には衆議院と貴族院が国勢調査の実施を決議しましたが提案者・賛成者も何をするのかが判っておらず、根拠の法律が成立したのは明治35(1902)年で第1回の実施を予定していた明治38(1905)年は日露戦争の真っ最中で延期、10年後とした大正4(1915)年も第1次世界大戦で延期、結局、大正9(1920)年に第1回が実施されて日本の人口が5596万3053人であることが判りました。その後、5年ごとに実施されましたが「紀元は2600年、ああ1億の胸は鳴る」と奉祝歌で歌っている皇紀2600年=昭和15(1940)年の人口は7311万4308人でした。
1億人を突破してからは2010年の第19回の1億2805万7352人をピークに毎回100万人程度のペースで減少していますが、食料から燃料まで完全自給自足だった江戸時代が3000万人だったのですから、それがこの国土に見合った人口なのであって現役の勤労者が過去の勤労者の贅沢な生活を支える年金制度を縮小して死ぬまで働く社会に戻せば現在の人口減少はむしろ自然の摂理なのかも知れません。本気で人口を増やしたければ若い男性の精力と性欲を野僧世代の若い頃並みに増強する以外にありません。
  1. 2023/03/30(木) 14:34:38|
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