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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月1日・今年は知名度が上がった蒲郡市の市制記念日

今年の大河ドラマ「どうする家康」は歪曲にもならない虚偽で塗り固められていて不快感しか覚えませんが、1つだけ感激したのが地元では知勇を兼ね備えた英傑とされながら東照神君・徳川家康公と戦って死んだため反逆者とされてきた鵜殿長照さんを登場させ、野僧の母校・蒲郡高校がある愛知県蒲郡市の知名度を全国区で上げてくれたことです。
そんな蒲郡市は昭和29(1954)年の明日4月1日に愛知県では15番目に市制に移行しました。「蒲郡(がまごおり)」と言う地名は北海道・沖縄を除く難読な地名ランキングに必ずエントリーされていますが、明治11(1878)年の郡区町村編制法の公布を受けて蒲形(現在の蒲郡高校の辺り)と西之郡(現在のボートレース場の辺り)の村名を合わせたもので明治24(1891)年に町制に移行しても維持されました。
野僧は岡崎市の矢作南小学校で三河武士の独立自尊の気風に染まりながら成長したので両親の出身地の東三河の百姓根性が全く肌に合わず、中学校の3年間で限界に達して広島県江田島にあった海上自衛隊生徒を受験したのですが父親に合格通知を破り捨てられて愛知県内の高校に進学することを強要されたため豊川(とよがわ=河川名)の流域から外れ、一駅でも遠い高校として蒲郡高校を選びました。
実際、蒲郡市は自宅=実家がある現世の三悪道=旧・一宮町と同様に宝飯郡に含まれていましたが江戸時代から宝飯郡の中心の豊川(とよかわ=地名)よりも岡崎藩や吉田藩(現在の豊橋市)との交流が盛んだった上、農漁業が並立し、岡崎と同様に浄土宗の寺院が多く曹洞宗王国の宝飯郡とは価値観・倫理観が異なるため分離意識が強く、市制移行時には蒲郡町と東隣で温泉地の三谷(みや)町、西隣の塩津村が合併して人口は48552人、さらに昭和37(1962)年には西隣の温泉地の形原町、翌年に同じく温泉地の西浦町と合併して81046人になりました(2023年2月1日時点で78348人)。
蒲郡高校に入学した時、地元出身の生徒は蒲郡と宝飯郡の気風の違いを「(宝飯郡の)百姓は隣りが種を播けば播き、水を撒けば撒き、刈れば刈るから何でも周りに合せるようになる。ところが(蒲郡の)漁師は命がけで漁に出るから百姓よりも勇敢だ。他人が網を入れている海では魚が獲れない。人と違うことが必然なんだ」と明快に語っていました。また地元出身の女子は「蒲郡の女は(宝飯郡の)農家の女房みたいに亭主に言われるままに働くことはしない。田畑で喰っていけなければ海岸で魚を捌き、それでも駄目なら温泉で仲居、綺麗なら芸者になって家族を喰わすのよ」とセーラー服の胸を張っていました。
蒲郡は静岡県西部の浜名湖北岸に次ぐ蜜柑の産地ですが、それを広めたのは我が蒲郡高校の前身(学科的にはつながっていない)の蒲郡農業学校です。そのため歴代市長は元生徒会長のOBばかりで野僧が生徒会長だった時には商店街の小母ちゃんまで「会長さん」と声をかけてきました。野僧がそんな蒲郡を気に入らないはずがなく、朝の登校時は東海道線の車窓から蒲郡の海が見えると心が湧き立ち、夕方の帰宅時に宝飯郡一宮町の山が目に入ると地獄の底へ堕ちて逝くような気分になりました。したがって海上自衛隊志望だった愚息1は蒲郡市内の三谷水産高校に進学させました。
竹島2我が国固有の領土の蒲郡市「竹島」
  1. 2023/03/31(金) 14:26:31|
  2. 日記(暦)
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