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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月7日・戦艦・大和の撃沈で伊藤整一中将が戦死した。

昭和20(1945)年の明日4月7日に海上特攻・天1号作戦で出撃した戦艦・大和が鹿児島県坊ノ津沖で撃沈されて第2艦隊司令長官・伊藤整一中将が戦死しました。
伊藤中将は明治23(1890)年に福岡県三池郡高田町で生まれ、明治44(1911)年に海軍兵学校39期を15番の成績で修了しています。
日露戦争後の日本海軍は第1次世界大戦で地中海の商船航路を護衛する艦隊を派遣し、陸軍のドイツの中国の租借地・青島攻撃の支援と南太平洋の植民地の攻略以外に実戦を経験しておらず、対米英中戦争を主導した日本海軍の提督たちの大半は机上の軍学だけで昇任した優等生ばかりですが、伊藤中将は大正12(1923)年に海軍大学校を次席で修了して昭和2(1927)年から4年間のアメリカ派遣を経て大佐に昇任してからも給油艦から巡洋艦3隻と戦艦1隻の艦長を経験していて艦乗りとしての潮っ気は十分でした。
また伊藤中将はアメリカ派遣中に後に中部太平洋艦隊=第5艦隊司令官として戦うことになるレイモンド・スプール大将と深い親交を持つなど日本海軍きっての知米派でしたが、昭和16(1941)年8月11日に山本五十六大将が連合艦隊司令長官に着任するのと同日付で参謀長から軍令部次長に転任したため敗戦後の日本人が好む開戦に反対した逸話は語られておらず、むしろ帰国した在アメリカ駐在武官の横山一郎大佐に戦争を終わらせる方法を質問して「どのようにしても日本の敗戦は避けられず、上手くいっても日清戦争以前の状況に戻る」と言う回答を冷静に受け容れたことからはアメリカの工業生産力や科学技術だけを恐れて国民性を知らず「短期決戦で連勝すれば有利な形で停戦できる」と考えていた山本大将以上の将器を感じます。また昭和19(1944)年6月のマリアナ海戦で壊滅的に搭乗員と航空機を失った現場部隊から航空特攻の研究と実行を提言された時には「まだ体当たり攻撃を採用する時機ではない」と握り潰しました。
そんな伊藤中将は昭和19(1944)年12月に第2艦隊司令長官に就任して戦艦大和に乗務しますが盟友・スプールアンス大将が指揮するアメリカ軍が昭和20(1945)年3月26日の硫黄島の陥落に続いて4月1日に沖縄本島に上陸すると連合艦隊は作戦参謀の神重徳大佐が独断で豊田副武司令長官の決裁を受けた戦艦・大和と軽巡洋艦・矢矧と生き残っている駆逐艦の在庫一掃処分のような海上特攻・天1号作戦を発令しました。
この作戦の伝達には神大佐に面目を潰された草鹿龍之介参謀長が赴きましたが伊藤中将が拒否したため「一億総特攻の魁になってもらいたい」との殺し文句で承諾させたのです。
こうして4月6日に柱島の停泊地から出撃して豊後水道と日向灘を南下、九州南端を迂回して東シナ海に向かっている時に沖縄本島周辺海域の航空母艦から発艦した数百機のアメリカ軍機の攻撃を受けて撃沈され、伊藤中将は長官室にこもって運命を共にしました。
この直前、4月28日に神風(シンプウ)特攻で後を追うことになる長男の叡(あきら)中尉が鹿屋基地を発進して最期の姿を見届けています。また最初の妻を1年余りで亡くして再婚した妻に「親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心から感謝致候。いとしき最愛のちとせ殿」と愛妻家の面目躍如の遺書を記しています。
  1. 2023/04/06(木) 15:52:22|
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