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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月7日・最後の戦艦・大和艦長・有賀幸作大佐が戦死した。

昭和20(1945)年の明日4月7日に戦艦・大和が撃沈されてイギリス海軍から継承した悪しき風習に殉じて艦長の有賀(あるが)幸作大佐が戦死しました。ただし、長野県南部では「有賀」姓を「あるが」と読むのですが、海軍では訊き返されるのが面倒なので一般的な「ありが」で通していたそうです。
有賀大佐は明治30(1897)年に長野県伊那郡朝日村の金物屋でも日露戦争に出征して203高地攻囲戦で軍功を上げて金鵄勲章を受けている父親の長男として生まれました。海軍兵学校は45期で同期には敗戦時の軍令部第1部長で戦艦・ミズーリの甲板での降伏文書調印式に海軍代表として参加した富岡定俊少将や戦艦・大和と一緒に出撃した軽巡洋艦・矢矧で第2水雷戦隊司令官として指揮を執っていた同じ長野県伊那郡朝日村出身の古村啓蔵少将、瑞鶴や大鳳などの航空母艦の艦長を専門に勤めた菊池朝三少将がいますが、ハンモックナンバー=卒業序列が89人中57位と奮わなかったせいなのか歴戦の名駆逐艦長として山本五十六連合艦隊司令長官が「有賀を殺すな」と特に命じ、後の自衛艦隊司令官・山本啓志郎海将が少尉として配属された駆逐艦・電で有賀艦長に鍛えられたことを「神に感謝した」と言わしめるほどの人在だったにも関わらず大佐で戦死しました。残っている肖像・集合写真はどれも帽子をかぶっていますが頭頂部は見事に禿げ上がっていて酷い水虫だったため艦内でも草履を愛用していたそうです。
有賀艦長の軍暦は神風型駆逐艦・水無月から始まり、大正11(1922)年に戦艦・長門に乗務して結婚、長男を儲けたもののそれ以降は峯風型駆逐艦・秋風の水雷長、川内級軽巡洋艦・神通の水雷長、同級・那珂の水雷長、球磨級軽巡洋艦・木曽の水雷長、昭和4(1929)年からは若竹型駆逐艦・夕顔の艦長、同級・芙蓉の艦長、昭和7(1932)年には峯風型駆逐艦・太刀風と秋風の艦長を兼務して神風型駆逐艦・松風の艦長、そして最新鋭の暁型駆逐艦・電の艦長を歴任し、昭和10(1935)年に鎮海鎮守府参謀になって陸に上がりましたが翌年に軽巡洋艦・川内の副長として艦に戻り、昭和13(1938)年からは掃海艇6隻の第1掃海隊司令、駆逐艦2隻の第11駆逐隊司令、昭和15(1940)年に大佐に昇任して駆逐艦4隻の第4駆逐隊司令、この職務で対米英中戦争を迎えます。これだけの熟練の艦乗りであれば戦争でも如何なく実力を発揮して緒戦ではマレー半島上陸作戦を支援して東南アジア海域で活躍し、ミッドウェイ海戦では大破した航空母艦・赤城の魚雷による爆枕処分を命じられ、ソロモン海戦や南太平洋開戦にも参戦して昭和18(1943)年に高雄級重巡洋艦・鳥海の艦長になりますが、翌年4月にデング熱に罹患して内地に戻って療養しながらの水雷学校の教頭として勤務することになりました。そして病気が平癒した11月に戦艦・大和の第5代艦長に指名されたのです。
戦艦・大和が沈没した時、有賀艦長が艦橋の羅針儀に身体を縛りつけたと言う元乗員の吉田満さんが著書「戦艦大和ノ最期」で紹介し、昭和28(1953)年公開の映画「戦艦大和」でも描かれた逸話が有名ですが2005年公開の「男たちの大和」では「防空指揮所の羅針儀を両手で握りしめていた」に変更されています。
  1. 2023/04/07(金) 14:55:06|
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