2010年の明日4月9日は「道元の冒険」で岸田國士戯曲賞、小説「手鎖心中」で直木三十五賞を受賞した井上ひさしさんの命日です。75歳でした。「吉里吉里忌」は東北の寒村の独立と日本政府の妨害を描いた代表作「吉里吉里人」に由来します。
井上さんは昭和9(1934)年に山形県東置賜郡小松町で家業の薬局を手伝いながら文筆活動に励んでいる父と病院で下働きをしている母の長男として生まれました。ただし、両親は入籍しなかったため井上さんと弟2人は婚外子として戸籍登録されていました。
父は家業を継ぐため薬剤師を目指しながらも左翼系の小説を執筆・発表する一方で青年共産同盟(現在の民主青年同盟)の一員として農地解放運動に参画し、さらに劇団を立ち上げる多才な人物で家には父の膨大な蔵書がありました。
5歳の時、父が脊髄カリエスで病没すると母が薬局を引き継ぎ、闇米販売や美容院の経営で生計を立てましたがやがて旅回りの芸人を家に住まわせるようになると井上さんは虐待を受けて円形脱毛症と吃音になり、結局、有り金を持ち逃げされました。そんな中、井上さんは父が残した大量の難解な本を読んで過ごしましたが母は逃げた芸人が岩手県一関で飯場を経営しているのを突き止めて経営権を奪いました。しかし、子連れの女に荒くれ者たちを差配できるはずがなく間もなく倒産して、生活苦から中学3年で弟と一緒に仙台市のカソリック系の孤児院に預けられました。孤児院では修道士の心象を良くするために洗礼を受け(大学卒業後に棄教している)、そのおかげで孤児院から仙台市内の高校に通い、卒業後は上智大学に進学して東京の修道院に寄宿することができました。
ところが大学時代から浅草のストリップ劇場の幕間の演芸の台本を書くようになり、高校時代に映画館通って暗い客席で台詞をノートに書き取っていた勉強が役に立って渥美清さん、関敬六さん、谷幹一さん、長門勇さんなどの後の喜劇界のスター俳優たちの信頼を得ました。この頃、初の戯曲「うかうか三十、ちょろちょろ四十」を書いています。
そして昭和35(1960)年に大学を卒業すると放送作家になり、昭和39(1964)年から5年間の長編人形劇「ひょっこりひょうたん島」の子供むけ番組でありながら駄洒落と社会風刺をちりばめた秀逸な台本で知名度を上げ、さらに人気お笑い芸人・てんぷくトリオのコント台本を手掛けたことで地位を確立しました。昭和58(1983)年には父が主催していた地方劇団「小松座」と同じ名前の劇団「こまつ座」を立ち上げ、「頭痛肩こり樋口一葉」「国語元年(後にNHKでドラマ化された)」「泣き虫なまいき石川啄木」「花よりタンゴ」「人間合格」などの傑作を上演しましたが、井上さんは下調べが念入りだったため「遅筆堂」と自称するほど執筆に時間が掛かって台本が開演に間に合わず、上演が延期・中止になって多額の迷惑料を背負うことも多かったようです。
井上さんの作家としての基本姿勢は「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに 書くこと」だったそうです。
井上さんは父が戦前の共産党員であり、本人も共産党の元衆議院議員の娘と再婚していますが墓所は江戸時代までの皇室の陵墓がある真言宗泉湧寺の鎌倉市の末寺にあります。
- 2023/04/08(土) 14:30:15|
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