昭和63(1988)年の明日4月10日に本州四国連絡橋のうち唯一鉄道の線路を併設した岡山県倉敷市の児島から香川県の坂出のルート(瀬戸大橋の別称がある)が開通して同年3月13日の青函トンネルの開通と合わせて最北端の北海道・稚内駅から最南端の鹿児島県指宿市・西大山駅や四国最南端の高知県・宿毛駅まで全国の鉄道がつながりました。
本州四国連絡橋については明治22(1889)年に讃岐鉄道の開通式で香川県議会議員が提唱したのが始まりですが当時は冗談の類に過ぎませんでした。ところが大正時代になると淡路島を挟んで比較的距離が近い徳島県選出の代議士が「鳴門架橋に関する建議案」を国会に提出し、さらに敗戦後に工学博士の学位を持つ神戸市長が「明石架橋構想」を公表していました。しかし、北海道の青函トンネルと本州四国連絡橋の建設はあまりにも巨大な国家プロジェクトのため実現に向けては国民の絶対的な支持が不可欠で、それには津軽海峡、瀬戸内海を横断する唯一の手段だった連絡船の転覆事故と多数の犠牲を利用しました。津軽海峡では昭和29(1954)年9月26日に台風15号が接近する中、出港を強行した青函連絡船・洞爺丸が港外で強い横波を受けて横転し、1155人が死亡・行方不明になった海難事故を。瀬戸内海では昭和20(1945)年11月6日に愛媛県今治市の伯方島木浦港沖で定員の3倍の乗客を乗せた第10東予丸が転覆して397名が死亡し、同年12月9日には明石海峡の松帆の浦沖で同じく3倍の乗客を乗せて強風の中、出港したせきれい丸が転覆して304名が死亡。さらに昭和25(1950)年3月25日に宇高連絡船の紫雲丸が鷲羽丸に衝突して沈没、船長と乗客乗員7名が死亡し、昭和30(1955)年5月11日にも引き揚げて改修した紫雲丸が再び第3宇高丸と衝突して沈没、乗客乗員168名が犠牲になりました。この他にも昭和32(1957)年4月12日に広島県尾道市の生田島瀬戸田港沖でこれも同じく3倍の乗客を乗せた第5北川丸が転覆して113名が死亡していますが、これらの事故現場が全て青函トンネルと本州四国連絡橋の建設場所になっていることでも海難事故が国家プロジェクト推進の口実に利用されたことが判ります。それにしても瀬戸内海での事故は定員の3倍の乗客を乗せて出航したため復元力を失ったことが原因ですが、政治家が圧力をかける時には取り締まりの強化による再発防止ではなく旅客需要の確保が優先されるようです。
こうして昭和36(1961)年に青函トンネルは着工しましたが、本州四国連絡橋については建設の順番や鉄道併設などの規格を巡って計画が二転三転して延期が相次ぎ、それに昭和48(1973)年のオイルショックが追い討ちをかけて、その間にトンネル開通から10年後の昭和43(1968)年に着工した関門橋は昭和58(1978)年に開通してしまいました。
結局、橋の規模が大きい児島・坂出ルートを優先して岡山県の尾道・愛媛県の今治のルートについては島民の生活の便になる離島から離島を結ぶ連絡橋の建設から始め、明石海峡大橋と大鳴門橋だけの神戸・鳴門ルートは予算の関係で新幹線を併設する計画を断念して自動車道だけになりましたが淡路島内の道路建設が遅れて完成は児島・坂出ルートよりも10年遅く、尾道・今治ルートよりも1年早い1998年4月5日になりました。
- 2023/04/09(日) 14:51:34|
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