1997年の4月10日は敗戦後の日本で反日反米親ソ親中共の政治活動を進めていいた左翼文化人に対して芥川賞作家の石原慎太郎さんと共に右翼的言動で名を馳せた作曲家の黛敏郎さんの命日です。68歳でした。墓所は石原裕次郎さんと同じく横浜市鶴見区の總持寺にあって石原さんほどではないにしても参拝者を案内したことがあります。
野僧が黛さんの音楽を知ったのは蒲郡高校の音楽部の先輩から「お前は坊主ならこの曲を聴け」と言われて「涅槃交響曲」のレコードを渡された時でした。野僧もクラシック音楽が好きなので家に帰って聴くと第1楽章は楽器演奏で作った鐘の音が対話しているように響き合い、第2楽章は曲がついた読経で「これが音楽なのか」と首を傾げてしまいました。第3楽章はオーケストラの瞑想的な楽曲の演奏でしたが第4楽章は再び静かな鐘の音の演奏の中、男性の「摩訶般若波羅蜜」の合唱になり、第5楽章は鐘が一斉に打ち鳴らされるような演奏で後半には男性の合唱による「オー」と言う叫び声になりました。そして第6楽章では「声明(しょうみょう=節をつけた読経)」が始まりましたが経典の歌詞はなく第5楽章と同じ「オー」と言う叫び声にオーケストラの演奏が重なって終わりました。
理解不能とは言えレコードを返す時には感想を述べなければならず次の日曜日に師僧=祖父に聴いてもらうと名古屋の覚王山日泰寺で声明を学んだ師僧は「これは天台宗の勤経と声明だな」と解説してくれたので「坊主」の面目を保つことができました。
それから黛さんが司会をしていた「題名のない音楽会」を見るようになると父親が「こいつは黛ジュンの兄だ」と解説しましたが作曲家でも三木たかしさんの間違いでした。
黛さんは昭和4(1929)年に横浜市で生まれ、旧制・横浜第1中学校から昭和20(1945)年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に進学しました。在学中には敗戦後の日本社会を席巻していたアメリカ文化のジャズに染まり、映画音楽も手掛けています。音楽学校から研究科に進み、昭和26(1951)年に修了すると高峰秀子さん主演の映画「カルメン故郷に帰る」のブギ風の主題歌を作曲して一般大衆にも名前が知られました。
同年にフランス政府の受け入れ留学生としてパリ国立高等音楽院に留学しますが、教育内容に反発して1年で退学・帰国しています。ところが同年の国際現代音楽協会主催の音楽祭で作品が入選して中途退学・帰国が挫折ではないことを証明しました。また富田勲さんと同じく電子音楽の先駆者でもありました。
その一方で昭和33(1958)年には売国奴・大江健三郎(敬称不要)の口車に乗って石原慎太郎さん、江藤淳さん、谷川俊太郎さん、寺山修二さん、永六輔さん、福田善之さんと共に極左文化人団体「若い日本の会」を結成して安保条約改定反対運動に取り組むようになりました。そのおかげで昭和39(1964)年から司会を勤めていたテレビ東京の「題名のない音楽会」が昭和41(1966)年からテレビ朝日に替わっても降板せずに番組の看板としての地位を固めて、70年代の学園紛争を見て左翼文化人の実態を見抜き、転向して右翼の芸術家・文化人として存在感を発揮し始めても収録中に倒れて亡くなるまで出演し続けることになりました。テレビ朝日=朝日新聞は困っていました。
- 2023/04/10(月) 14:38:53|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0