首相官邸では閣僚たちが北海道への上陸、日本海上空での空中戦、空海自衛隊によるロシア艦隊への攻撃、そして新潟への上陸と言う現実の侵略を注視していた。立野官房長官の配慮で官邸内に仮眠室を設け、自宅から普段着と日用品を届けさせ、シャワーを浴びさせているが流石に疲労の色は濃くなっている。釜田防衛大臣もモニター画面に映り続けているところを見ると閣僚たち以上の激務を遂行しているようだ。
「総理に在日ソビエト連邦大使館の駐在武官から連絡が入っています」「誰だって」そんな中、秘書官が石田首相に声をかけた。石田首相は隣接する首相公邸に数回帰っているが執務室のソファーで仮眠しているだけなので返事は少し苛立った口調だった。
「駐在武官なら防衛大臣じゃあないのか」「いいえ、『総理に』と申し入れてきました。こちらから掛け直しましたが狸穴のソビエト連邦大使館からで間違いありません」立野官房長官の確認に秘書官は役人的に答えた。今は東京都港区麻布台の在日ロシア連邦大使館は昔の地名が麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)だったので官僚や役人たちの間では「狸穴」と呼ばれている。また1992年にソビエト連邦が崩壊した後も登記変更していないため公式にはロシア連邦大使館になっていない。とは言え地名は愛称にしても国名は皮肉に近い。
「もしもし、石田だが」「在東京ロシア連邦大使館の駐在武官であるビクトル・ステンパラージン大佐だ。我がロシア連邦の極東軍司令官から日本政府への通告を伝達するために電話をした」石田首相の電話を立野官房長官も接続して聴いているが、ステンパラージン大佐の日本語は流暢な割に敬語や丁寧語を用いておらず厳しい内容が予想された。
「我がロシア連邦は国際連合常任理事国として中華人民共和国と共に日本の少数民族への弾圧を解消させるために懲罰を兼ねて軍事占領することを決定した。そして現在は北海道及び新潟の一部を占領している。そこで・・・」ここでステンパラージン大佐は一呼吸の間を置いた。この心理的効果を狙った言葉の演出はかなり日本語を熟知していなければ身につかない。ロシアでは日本が江戸時代だった頃、ピョートル大帝が日本人の漂流民に日本語学校を開校させて、さらに日本語とロシア語の辞書を作らせている。その成果として漂流民を送り届けるために来日した使節に熟練した日本語の通訳を複数同行させ、漂流民の息子に議事の通訳をさせながらヨーロッパ人の容姿の通訳には日本側の会話を聴取させた。
「ロシア連邦極東軍管区司令官の名を以って日本国政府に通告する。直ちに無条件降伏せよ。これに応じなければ現在、占領中の新潟県柏崎市の原子力発電所を砲撃によって破壊する。我が軍の火砲の射程距離は日本国政府が避難範囲の基準としている20キロを超えており、我が軍の将兵は安全地帯から砲撃できる。その一方で新潟から東京までの直線距離は福島第1原子力発電所よりも近く(実際は約12キロ)、長期的な放射能汚染による健康被害の危険性は広島出身の貴方なら理解できるだろう。なお、ご希望とあらばこれも日本海側に建設してある島根原子力発電所も破壊して差し上げよう。そうなれば100キロしか離れていない広島に2度目の放射能が降り注ぐはずだ」この警告は石田首相には心外だった。昨日には石田首相自身が企画した天皇をオンラインで参加させた御前会議を開いていた。ところが天皇は映像なしの戦況説明だけで過度のストレス=心的外傷を受けて退席してしまった。あの後、皇太子妃時代にストレスを原因とする帯状疱疹を患っていた妻の主治医の診断を受けたのかも知れない。その妻はオランダへの亡命の準備中のはずだ。
「日本政府には亡くなった加倍首相以外にリーダーがいないことは我々も承知している。しかし、これは即断しなければ直ちに砲撃命令が発令されるのだ」この電話はオンラインではないのでステンパラージン大佐の顔は見えないが威圧するような鋭い眼光を向けているはずだ。
「拒否する」石田首相が返事をするために深く息を吸った時、隣りで立野官房長官が逆の回答を返した。ステンパラージン大佐の電話は向こうが一方的に喋っていたため閣僚たちに内容は判らなかったが相手が侵略当事国の軍人であり、天皇を担ぎ出して降伏を決定しようとした石田首相の顔が妙に安堵したような表情になったことで推理はできていた。
「そうか、今日は北風が強いから大量に飛散してくる放射能には気をつけたまえ」「それは余計な心配だ。刈羽原原発はロシアが介入してきた時点で発電を停止させている。新潟の総領事館の職員を家族と一緒に東京に引き上げさせたのが放射能漏れを心配したのだったら早まったな。もっと現地情報の収集に励ますべきだっただろう」絶句している石田首相を無視して立野官房長官が口撃を始めた。柏崎市の原子力発電所はロシア軍を誘導する目的で残っている在日半島人以外の新潟県民の大半が秋田県や山形県と北陸3県に避難してからは関東方面の電力需要の不足分用だった。そのため備蓄している予備の燃料も殆どない。
- 2023/04/13(木) 15:22:14|
- 夜の連続小説9
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