2018年の4月15日は数多くの戦争映画、軍隊映画で厳しい軍曹役を演じ、それが真に迫っていたため「ガ二ー=ガネリー・サージェント=2等軍曹」の愛称で呼ばれていた俳優のR・リー・アメイ(本物の)2等軍曹の命日です。74歳でした。
アメリカ海兵隊の階級章は兵の間は交差した小銃の上に鋭角の線が3本=上等兵まで積み重なり、下士官になると小銃の下に緩やかな曲線の線が提げ重なっていきます。ガネリー・サージェントは上が3本、下が2本で「最もバランスが良い」と言われています。
アメイ軍曹は第2次世界大戦が終わる前年の1944年にアメリカ本土の中央に位置するカンザス州で生まれましたが、正式なファースト・ネームの「ロナルド」は少女漫画の主人公と同じ「ロニー」と言いならされるため頭文字の「R」だけを用いるようになったそうです(カンザス州ではレーガン大統領の「ロン」にはならないようです)。
小学生の頃は通学中に祖父の猟銃で狩りをするような悪童で14歳の時にワシントン州に転居すると札付きの悪になって17歳の時に2度目の少年審判で「軍隊に入営するか、刑務所で服役するか」と二者択一を宣告されて海兵隊に入隊しました。本人としてはカンザス生まれの割には海軍軍人だった父親と同じ海軍に入るつもりでしたが募集のポルターを見て「軍服が格好良いから」と海兵隊を選んだそうです。
アメリカ海兵隊の新兵教育は厳しいことで有名ですが、アメイ2等兵は家庭で父親から海軍式の厳格な躾を受けていたため全く苦にならず(ウチの愚息1も同じことを言っていました)、入隊4年目の1965年から1967年まではカリフォルニア州サンディエゴにある新兵教育隊でDI(ドリル・インストラクター=教練教官)を勤めました。
1968年からは第17海兵航空支援群に転属してベトナム戦争に参戦すると何度も負傷して沖縄の普天間基地でも2度勤務しました。そして1972年にスタッフ・サージェント=3等軍曹に昇任して名誉除隊(正式な手続きを踏んだ除隊)しました。
除隊後はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされながらも沖縄でパブを開業して失敗、フィリピンに移住して復員軍人奨学金制度でマニラ大学に入学して犯罪学と演技を学んでいる時、初めて出演した映画「ザ・ボーイ・イン・カンパニー・C(邦題・ヤング・ソールジャー・海兵隊員の青春)」を見たフランシス・コッポラ監督によって1979年公開の「地獄の黙示録」にヘリコプターのパイロット役で出演することになりました(テクニカル・アドバイザーも兼務した)。それから何本かの映画に脇役で出演した後、1987年公開の「フルメタル・ジャケット」に同じくテクニカル・アドバイザーとして参加したところ海兵隊教官の演技指導を見たスタンリー・キューブリック監督がハートマン軍曹役に抜擢して迫真の演技が絶賛を浴びたのです。
その後も60本以上の映画に出演する一方でアニメの声優、テレビの司会者などでも活躍すると2002年5月に海兵隊司令官によって過去には例がない退役者としてガネリー・サージェントに昇任されて役柄や愛称ではなく2等軍曹になったのです。葬儀後には海兵隊員によって棺が運ばれ、アーリントン国立墓地に埋葬されました。
- 2023/04/15(土) 14:55:34|
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