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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月17日・イギリスの一部とオランダの335年戦争が終結した。

1651年4月17日にオランダがイギリスのシリー諸島に宣戦を布告して以来、335年間も放置されていた戦争が1986年の明日4月17日に終結しました。
1651年のイギリスは1642年に勃発し、1649年1月30日に国王・チャールズ1世が処刑された清教徒革命の延長戦でオリバー・クロムウェルさんが率いる議会軍=革命軍と後にチャールズ2世になる王太子に忠誠を尽くす国王軍との間で内戦が継続していました。しかし、戦況は議会軍が圧倒的に優勢で国王軍はグレートブリテン島内でも南西の端の半島・コーンウォールに追い詰められていました。そしてコーンウォールも陥落寸前になると国王軍の主力は海軍だったので国王派貴族の領地だったコーニッシュ海岸沖のシリー諸島に脱出を図ったのです。
一方、当時のオランダは後にイギリスに奪われることになるインドや東南アジアの植民地を支配する絶頂期でしたが1568年から1648年までのスペインとの80年戦争ではエリザベス1世女王以降の歴代イギリス国王の支援によって勝利し、悲願の独立を果たした恩義があるため「友好関係を維持したい」と言う意思は明確でも「味方をするなら勝つ方に」と言う計算も働いていて事態を静観していました。そんな中、シリー諸島を拠点とする国王軍の艦艇がドーバー海峡を航行する商船に海賊行為を働くようになり、オランダ王室は海軍司令官を派遣して海賊行為の取り締まりと拿捕されたオランダの船舶の返還、奪われた積み荷の賠償を要求させたのです。海軍司令官は命ぜられた内容を要求した上で「受け入れられなければ宣戦布告する」と通告したとされています。
しかし、国王軍は敗北寸前だったため要求に応じることはできず結果として拒否することになり、ここでオランダは議会軍が支配する国家としてのイギリスではなくシリー諸島の国王軍に対して宣戦布告したことになりました。そして2カ月後の1651年6月に国王軍は降伏したため脅威がなくなったオランダ艦隊は要求を果たせないまま1発の艦砲、銃器も発射することなく1名の戦死者、負傷者も出すことなく撤退したのです。
この時、海軍司令官にはオランダ国王から宣戦布告する権限は与えられていなかったため単なる交渉上の虚仮威し(こけおどし)=ハッタリと看做され、国家が他国ではなくその一部に宣戦布告したと言う特異性も手伝って公式な交渉での通告だったにも関わらず放置されて、やがて伝説の類(たぐい)として忘れ去られてしまいました。
ところが1985年になってシリー諸島の自治体の議会で議長を務める郷土史家がロンドンに在英オランダ大使館に「シリー諸島とオランダは戦争中である」と言う地元の伝説を説明する書簡を送ったことで史実の検証が始まり、大使館によってこの伝説が事実であることが確認されたため議長がオランダ大使をシリー諸島に招き、宣戦布告が通告されて335年後の4月17日に和平条約に調印して戦争が終結したのです。
調印式典でオランダ大使は「シリー諸島の人々はいつオランダに攻撃されるか判らないと言う不安の中で335年間も暮らしていたのでしょう」とジョークを飛ばしましたが、その後に繰り返されたオランダとイギリスの戦争での被害は及びませんでした。
  1. 2023/04/16(日) 15:34:37|
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