fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月20日・東京裁判を主導したカー検事の命日

1965年の4月20日は弁護士が本業で検事としては経験不足だったにも関わらず司法省での政治的立ち回りの功で指名されたアメリカのジョセフ・キーナン主席検事に代わって極東国際軍事裁判所=東京裁判の検事団の実質的な指揮を執ったイギリス代表検事・アーサー・ストレテル・コミンズ・カー検事の命日です。
カー検事は1882年にロンドンの西の端にあるメリルボーンで劇作家と劇場の衣装デザイナーの息子として生まれました。オックスフォード大学で法律を学んで弁護の資格を取得し、数多くの裁判で勝利したことで名声を獲得して王室の顧問弁護士になっています。第1次世界大戦では海軍予備士官に志願しましたが軍需省に配置され、終戦後は復興賞でも活躍し、政界に進出して自由党の国会議員になって、ヨーロッパに於ける第2次世界大戦の終戦直後の7月5日に行われた総選挙でチャーチル政権に取って代わった労働党のクレメント・リチャード・アトリー政権から極東軍事裁判所のイギリス代表検事に指名されて1946年2月2日に来日しました。
ところが極東国際軍事裁判は連合国間の対立で被告となるA級戦犯も知名度だけで10名を選定しただけで開廷の準備も本格化していませんでした。そこでカー検事はキーナン主席検事に国際検察局の再編成を提案してアメリカ、ソビエト連邦、オーストラリア、ニュージランド、中華民国、フランス、オランダ、インドの、アメリカ領フィリピンの検事で新設された執行委員会の議長に就任して指揮を執ったのです。
先ず着手したのがA級戦犯罪の指定でしたが、改めて4月4日に29名が決まったものの裁判の対象期間の対米英中戦争が始まった時点で現役ではなかった石原莞爾中将、真崎甚三郎大将、田村浩中将は除外されました。続いて4月18日に遅れてソビエト連邦の代表検事が来日すると天皇の訴追を求めない代わりに実業家2名を含む5名の追加を求めたため梅津陸軍参謀総長と重光外務大臣の2名を採用し、アイウエオ順に荒木貞夫陸軍大将、板垣征四郎陸軍大将(絞首刑)、梅津美治郎陸軍大将、大川周明先生(精神異常で免訴)、大島浩陸軍中将=ドイツ大使、岡敬純海軍大将、賀屋興宣大蔵大臣、木戸幸一内大臣、木村兵太郎陸軍大臣(絞首刑)、小磯國昭陸軍大将=首相、佐藤賢了陸軍中将、重光葵外務大臣、嶋田繁太郎海軍大将、白鳥敏夫イタリア大使、鈴木貞一企画院総裁、東郷重徳外務大臣、東條英機陸軍大将=首相(絞首刑)、土肥原賢二陸軍大将(絞首刑)、永野修身海軍大将、橋本欣五郎陸軍大佐、畑俊六陸軍大将、平沼騏一郎首相、広田弘毅外務大臣(絞首刑)、星野直樹内閣書記官長、松井石根陸軍大将(後にB級戦犯に変更されたが絞首刑)、松岡洋右外務大臣、南次郎陸軍大将、武藤章陸軍中将(絞首刑)の28名が指定されました。しかし、この人選は日本の軍国化に果たした役割=戦争責任を必ずしも反映しておらず検事を派遣した国々が日本の国内情勢に関心を持っていなかったことが判ります。
こうして起訴状の作成、公判を主導していきましたが、日本の東南アジアの植民地解放はヨーロッパにとってはそれが侵略であり、戦勝国のアメリカが繰り広げた非人道的文民虐殺は不問に伏すことになり、裁判としての正否の評価は現在も大きく分かれています。
  1. 2023/04/20(木) 16:15:07|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ465 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ464>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8369-58eeb192
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)