4月16日に野僧が高校時代から御著書を拜読していた高野山大学の学長にして高野山真言宗の総本山・金剛峯寺の412世座主=宗門の管長、さらに日本佛教会の会長を務められた松長有慶猊下が入寂されました。93歳でした。
不思議な法縁で多くの高僧・名僧と面談したことがある野僧も猊下とは直接話したことはありませんが、紙一重だったのが2008年4月に日本佛教界の会長に就任されて間もなく北京夏季オリンピックの聖火リレーの日本での出発が前回の冬季オリンピックが開催された長野市の善光寺であることが発表された時です。その年の3月にチベットでは僧侶に変装した人民解放軍の兵士が中国系住民の店舗を破壊して商品を強奪しただけでなく店主を暴行・殺害する事件を起こして、その鎮圧との名目で介入した武装警察部隊が佛教寺院を封鎖して僧侶を大量虐殺したのです。野僧は脱出したチベット僧を保護したタイ人の僧侶から「共産党中国の国家行事に佛教寺院が利用されることを阻止して欲しい」と強い要望を受けたため日本佛教協会に連絡したのですが、猊下は和歌山県の自坊に帰っておられて不在でした。それでも電話で対応した同世代の僧侶から「猊下も密教の立場からチベット佛教を敬愛しておられて今回の事件には深く憤っておられる」と説明を受け、善光寺の僧侶たちにチベット僧が携帯電話で撮影し、タイ人の僧侶が送ってきた迫害と虐殺の動画と画像のDVDを送って内部から拒否・反対運動を起こすように扇動しました。
猊下は昭和4(1929)年に高野山の数多い塔頭の1つ南院の住職で高野山大学教授の長男として生まれ、自坊で別の僧侶を戒師として得度を受け、敗戦後に高野山大学に進学して昭和34(1959)年に東北大学の大学院研究科博士課程を修了しました。
昭和43(1968)年に高野山の補陀洛院の住職になり、高野山大学の教授になると昭和52(1977)年から2年間、インドの最北部でヒマラヤ山脈に囲まれたラダック地方の佛教文化調査の隊長として赴いています(続いてモンゴルも予定されていました)。
帰国後は昭和58(1983)年に高野山大学の学長に就任して以降は前述の重責を担っていかれました。その中で特筆すべきは2011年12月25日に弘法大師空海猊下と伝教大師最澄猊下が大楽金剛不空真実三摩耶経=般若理趣経の貸借を巡って断絶して以来、1200年ぶりに比叡山延暦寺に登られて天台宗の半田孝淳座主と面会されたことです。
真言宗では現在も僧侶が勤める密教の陀羅尼は法力が強過ぎて用い方を誤ると危険なため檀家信徒が家庭で唱える経本には収められておらず、中でも欲望を肯定し、燃え立たせることで大きな力を発揮すると説く理趣経は文章で理解すると道を誤りかねないため、弘法大師は秀才タイプの伝教大師に読ませることを躊躇されたのでしょう。
松長猊下の御著書もそのような傾向があり、一般向けの集英社「佛教を読む」「高僧伝」では各宗派の高僧が自分の宗派の根本経典や宗祖の伝記を詳細に著述していますが、松長猊下の「秘密の扉を開く・密教経典理趣経」「空海・無限を生きる」では理趣経を読んでいない者には世間話や伝承の紹介と思われるような内容になっていました。一方、学術書の岩波文庫「密教」では本質が解き明かされていました。感謝と崇敬を込めて百拜。
- 2023/04/21(金) 15:53:57|
- 追悼・告別・永訣文
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